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林は議長として幕僚業務の指揮を執るだけでなく、日本の対外防衛協力や交流活動にも参加した。自衛隊発足直後、防衛庁は[[ミサイル]]開発と研究を重要議題と位置付け、1954年8月には{{仮リンク|軍事援助顧問団|en|Military Assistance Advisory Group|label=在日軍事援助顧問団}}団長の{{仮リンク|ジェラルド・J・ヒギンズ|en|Gerald J. Higgins|label=ジェラルド・ヒギンズ}}少将と会談し、ミサイル攻撃への対応を学ぶため自衛隊の隊員をアメリカに派遣することについて意見交換を行い{{sfn|岡田|2009|pp=25-29}}、9月には[[アメリカ国防総省]]の招きで訪米。{{仮リンク|チャールズ・アーウィン・ウィルソン|en|Charles Erwin Wilson|label=チャールズ・ウィルソン}}国防長官、[[アーサー・W・ラドフォード|アーサー・ラドフォード]]統合参謀本部議長ら高官と[[ワシントンD.C.]]でハイレベル戦略会議を開き、[[在韓米軍]]再配備後の日本の実質的な防衛{{sfn|Hsinhua News Agency|1954|p=75}}や両国の合同軍事演習等の議題について討論を行ったほか、林も自衛隊の戦力増強のため、アメリカに多くの[[ジェット機]]や[[駆逐艦]]の供与を要請した{{sfn|Hsinhua News Agency|1954|p=170}}。1956年に日米が初めて[[戦域|戦域レベル]]の合同軍事演習を行った際には、東京の{{仮リンク|極東司令部 (アメリカ合衆国)|en|Far East Command (United States)|label=米軍極東司令部}}で作戦企画副参謀長を務める[[アーサー・トルドー]]中将と共に、それぞれ日米側の責任者を務めた{{sfn|Trudeau|1986|p=271}}。
 
1950年代後半になると、日本はアメリカの影響下で[[第一世界|西側防衛体制]]における重要な同盟国となっていた。林は統幕議長在任中、他の同盟国との関係の緊密化を図るため、これらの国々を訪問した{{sfn|Lowe|2010|p=138}}{{sfn|郭|1966|p=64}}。1957年5月5日から16日にかけて、[[イギリス政府]]の招きで、[[ロンドン]]の[[イギリス軍|英陸海空軍]]の各部隊や装備を視察した{{sfn|Japan Society of London|1957a|p=31}}。日本の高級将校がイギリスを公式訪問したのは、1937年に[[本間雅晴]]中将が[[ジョージ6世 (イギリス王)|ジョージ6世]]の戴冠式に出席して以来のことであった{{sfn|Japan Society of London|1957b|p=11}}。イギリスでの滞在を終えた後、5月21日に[[西ドイツ]]の首都[[ボン]]に向かい、翌日、[[フランツ・ヨーゼフ・シュトラウス]]軍部大臣、[[アドルフ・ホイジンガー]]連邦軍総監らと、戦後初となる日独両軍の長による会談を行った{{sfn|新华社|1957|p=34}}{{sfn|Reuter|1957|p=12}}。会談後、両者は共同で軍事に関する交流を行っていくことで合意した{{sfn|Society for the Prevention of World War III|1957|p=49}}。2年半後の1959年11月14日、15日には{{sfn|Foreign Broadcast Information Service|1959b|p=AAA 4}}、日本の軍事代表として{{sfn|Foreign Broadcast Information Service|1959a|p=BB 9}}[[フィリピン]]の[[バギオ]]に赴き、[[アメリカ太平洋軍]]の{{仮リンク|ハリー・D・フェルト|en|Harry D. Felt|en|label=ハリー・フェルト}}上将が主催する多国軍事会議に出席し、フィリピン軍参謀総長の{{仮リンク|マヌエル・F・カバル|en|Manuel F. Cabal|label=マヌエル・カバル}}中将、中華民国参謀総長の[[彭孟緝]]上将、その他[[東南アジア条約機構]]加盟国の軍事指導者らと会談し{{sfn|Foreign Broadcast Information Service|1959b|p=AAA 4}}{{sfn|Foreign Broadcast Information Service|1959c|p=AAA 12}}、[[西太平洋]]地域における軍事同盟の発展に努めた{{sfn|Foreign Broadcast Information Service|1959a|p=BB 9}}。
 
林は自衛隊の長という地位にこそあれ、統幕会議自体が単なる協議機関に過ぎなかったため、就任当初は[[統合作戦]]を指揮する権限を有していなかった{{sfn|华|2014|pp=199-200}}。だが、1961年防衛二法の改正によって統幕会議の権限が強化されると、議長には作戦時に動員中の自衛隊に対して命令を下す権限が与えられた。また、統合作戦における[[統合任務部隊 (自衛隊)|統合任務部隊]]に対する指揮権や防衛庁長官の命令を執行する権限も拡大された{{sfn|防衛省|2010}}{{sfn|Oriki|2014|p=16}}。
 
その後も統幕議長を務め、最終的には1964年8月まで10年余りに亘る長期体制を築くこととなった{{sfn|Japan Military Review|1992|p=136}}{{sfn|Auer|1973|p=279}}。在任期間としては最長であり、文民出身の唯一の議長でもあった。後任の人の議長は経験を積んだ軍人であり{{efn2|1964年に林の後任となった第2代議長の[[杉江一三]]海将、続く[[天野良英]]陸将、[[牟田弘國]]空将、[[板谷隆一]]海将、[[衣笠駿雄]]陸将、[[中村龍平]]陸将、[[白川元春]]空将、[[鮫島博一]]海将は、いずれも戦前、日本軍において佐官級の経験があった{{sfn|Welfield|2013|p=406}}。1987年に最後の旧日本軍出身の議長である[[森繁弘]]が退任した後は、議長は全て自衛官出身で、その殆どが[[防衛大学校]]の卒業生であった{{sfn|Frühstück|2007|p=42}}{{sfn|前田|1994|p=62}}。}}、その任期は概ね1年から3年程度である{{sfn|小川隆行|2015|p=109}}{{sfn|Auer|1973|p=117}}。
 
=== 退任後 ===