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: 「強くなったか? うん、うれしかった」と、後輩の成長を肌に染み込ませ、心の区切りをつけた<ref name="intainisaisite">2000年3月17日付日刊スポーツ紙面</ref>。取組後の支度部屋では「ここまできたら怖いものはない。やれるところまでやります」と話していたが、宿舎に向かう車中で冷静に限界を悟った。記者会見では引退の理由を「体力を補う気力が限界になりました」と述べる<ref name="intainisaisite"/>。現役時代一番の思い出として兄弟で横綱になったことを挙げ、1993年3月場所で曙関を破った一番を思い出の取り組みに挙げている<ref name="intainisaisite"/>。記者からは「夏場所復帰でも良かったのでは」と質問されたが、引退会見では「心の問題です。今場所前に、やるぞっという気持ちになったので」と話した<ref name="intainisaisite"/>。当時の若乃花は29歳2か月で、横綱在位は11場所だが皆勤は5場所であった。若乃花の引退により、4横綱時代も5場所のみに終わった。
: 横綱時代は休場の方が多くかつ横綱の地位で一度も幕内優勝出来ず、十分にその役目を果たせなかった<ref name="100retsu"/>。大関時代は大型力士が台頭する中で、小兵の若乃花は下手をすると大負けしかねない状況だったが、休場明け等の場所を除いた場所は概ね二桁以上の成績を上げている。引退時に「横綱昇進しなければ『名大関』として名を残せた」「大関の地位に留まれば、こんなに早く引退する事は無かった」と惜しむ声もあった<ref>『嫌いなことでも好きになれる。』魁皇博之・著作より。尚魁皇も若乃花と同じく1988年3月場所初土俵「花の六三組」の[[ライバル]]だった。</ref>。
: 2014年6月2日放送分のフジテレビの番組『[[ジャネーノ!?]] 』で、概して「相撲という競技は好きだが小さな体で大きな相手と戦わなければならないので大相撲力士にはなりたくなかった」と明かしており「横綱になったらやめるという条件を付けてもらった」と話した<ref>{{Cite web|和書|url=http://datazoo.jp/tv/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%8D%E3%83%BC%E3%83%8E%EF%BC%81%EF%BC%9F/757026|title=2014年6月2日放送『ジャネーノ!?』|publisher=TVでた蔵|date=2014-06-02|accessdate=2015-01-09}}</ref>。一方で2024年に『デイリー新潮』の記事では「最高でした。アメリカから来た最高にパワーのあるアスリートと一対一で戦える。戦争に負けているので土俵では負けられないなと。小錦さんや曙は土俵の半分が体ですから。でも僕みたいなのが勝つと日本の人たちは喜んでくれる」と現役時代を振り返っている<ref>[https://www.dailyshincho.jp/article/2024/03031055/?all=1&page=2 「相撲の流れが見えた」 若乃花が語った「天賦の才」と知られざる気性の荒さ(小林信也)(2/2ページ)] デイリー新潮 2024年03月03日 (文・小林信也、2024年3月4日閲覧)</ref>。
: 力士生命にとって致命的になった足の怪我の容態は引退後も回復しておらず、のちに「将来、車椅子の生活になる事は避けられない」と医師から告げられた事を告白している<ref>潮([[潮出版社]])2004年12月号 222〜229ページ『連載対談 内館牧子の「今日もがぶり寄り!」(36) 報道されていることの八割は「ウソ」でした。』</ref>。2016年夏頃に武蔵丸(現15代[[武蔵川]]親方)は若乃花に会った時、怪我の後遺症で毎日痛み止めを飲んでいることを知り驚いた<ref>『大相撲ジャーナル』2016年9月号12ページ</ref>。2021年9月場所直前の記事で、背骨は引退後も変形し続け一生治らないと報じられる<ref name="video"/>。
: 横綱昇進後は貴乃花との不仲や離婚問題など、騒動が多かったが、本人は「(ワイドショーで)騒がれた場所ほどかえって相撲に集中出来た」と語り、騒がれた場所では優勝を逃したが好成績を残している。