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死亡年月日の修正
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| 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期
| 生誕 = [[寛延]]4年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[1751年]][[9月9日]])
| 死没 = [[文政]]5年[[3月1112日 (旧暦)|3月1112日]]([[1822年]][[4523日]])
| 改名 = [[幼名]]:松三郎(秋月家時代)→ 直松/[[諱]]:勝興→治憲
| 別名 = [[仮名 (通称)|通称]]:直丸/出家号:鷹山
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}}
[[ファイル:Uesugi-Yozan statue.jpg|thumb|250px|上杉神社に立つ銅像]]
'''上杉 鷹山'''(うえすぎ ようざん、[[寛延]]4年[[7月20日 (旧暦)|7月20日]]([[1751年]][[9月9日]]) - [[文政]]5年[[3月1112日 (旧暦)|3月1112日]]([[1822年]][[4523日]])))<ref group="注釈">没年月日については諸説あり。詳細は生涯の「死去」の項目参照。</ref>)は、[[江戸時代]]中期の[[大名]]。[[出羽国]][[米沢藩]]9代藩主。[[山内上杉家]]25代当主。[[諱]]は初め勝興、後に'''治憲'''(はるのり)であり、'''鷹山'''は藩主隠居後の号であるが、この名で知られる<ref>横山昭男『上杉鷹山』(吉川弘文館、1987年)</ref>。米沢藩政改革を行った江戸時代の[[名君]]として知られる。
 
== 生涯 ==
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[[享和]]2年([[1802年]])、剃髪し、'''鷹山'''と号す<ref group="注釈">なお、[[武鑑]]の『諸大名御隠居方並御家督』で治憲の表記が「米沢侍従越前守藤原治憲」から「米沢侍従鷹山藤原治憲」に変更されたのは[[文化 (元号)|文化]]9年([[1812年]])からである。</ref>。この号は米沢藩領北部にあった[[白鷹山]](しらたかやま:現在の[[白鷹町]]にある)からとったと言われる。莅戸善政が没すると、その子[[莅戸政以]]が家督を継ぎ、享和・文化改革と呼ばれる改革を行った。
 
=== 死去 ===
[[文政]]5年[[3月1112日 (旧暦)|3月1112日]]([[1822年]][[4523日]]<ref group="注釈">グレゴリオ暦</ref>)の早朝に、疲労と老衰のために睡眠中に死去した<ref>{{Cite web |url=https://yonezawa-kankou-navi.com/person/yozan.html |title=上杉鷹山 |access-date=6 Apr 2024 |website=米沢観光NAVI}}</ref><ref>{{Kotobank|上杉治憲}}</ref>。[[享年]]72(満70歳没)。法名は元徳院殿聖翁文心大居士、墓所は[[米沢市]]御廟の[[上杉家廟所]]。初め、[[上杉神社]]に藩祖[[上杉謙信|謙信]]と共に祭神として祀られたが、[[明治]]35年([[1902年]])に設けられた摂社[[松岬神社]]に遷され、現在に至る。なお、一部資料では、死亡年月日を[[文政]]5年[[3月11日 (旧暦)|3月11日]]([[1822年]][[4月2日]])とするものもある<ref>{{Cite web |url=https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4906 |title=なせば成る。なさねば成らぬ何事も…米沢藩中興の祖・上杉鷹山 |access-date=6 Apr 2024 |publisher=[[PHP研究所]] |date=15 Jun 2022 |website=WEB歴史街道}}</ref>
 
=== 改革について ===
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*一時期鳥の飼育を趣味にし珍しい鳥を何匹も飼っていたが、倹約令を出すにあたり、きっぱりとやめ飼っていた鳥を全て野に放っている。また、隠居後[[煎茶]]に凝り最上の味を求めてかなり上達したが、他人に入れてもらったお茶を不味く感じるようになったのを申しわけなく思いやめたと言われる。
*有名な「'''[[為せば成る|なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり]]'''<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/022yozan.htm |title=伝国社 特別展「上杉鷹山~改革への道~ |publisher=米沢市上杉博物館 |language=日本語
|accessdate=2009-07-20 }}</ref>」(『上杉家文書』国宝の抜粋・上杉鷹山書状。{{lang|zh-tw|弗爲胡成}}(為さずんばなんぞ成らん、『[[書経]]』太甲下篇)に由来)の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられた<ref group="注釈">{{要出典範囲|現代では鷹山の和歌の方が馴染みがあるが元々は[[武田信玄]]の名言をコピー(1521-1573)が残したとされるもので、武田信玄中にも似た文がある。「為せば成る、為さねば成らぬ成る業を成らぬと捨つる人のはかなを変えて言ったものとされる。「こちらは少てみニュアンスが違い、努力て 言って聞かせて させてみずにあきらめ言葉気持ち残し戒めおり、[[山本五十六]](武田家家臣[[山本勘助]]の子孫と伝えられ山本家の養子)も信玄の影響を受けたとされる。<ref>{{Cite web |dateurl=2009年7月}}<https:/ref>。こ/www.jiji.com/jc/v6?id=word68&a=1 |title=あの人の忘は[[武田信玄]](1521-1573)の名得ぬ「為葉 なせば成る、為さねば成らぬ成る業を、何事も 成らぬと捨つる人のはか き」を模範にしたものさぬなりけり 上杉鷹山 |access-date=6 Apr 2024 |publisher=[[時事通信]] |website=JIJI.com}}</ref>。また、[[平田篤胤]]の歌にも「なせば成るなさねば成らず成る業(わざ)を成らずと棄(す)つる人のはかなさ」がある<ref>『[https://dl.ndl.go.jp/pid/2539323/1/50 気吹舎歌集]』、[[菅野覚明]]『神道の逆襲』 講談社現代新書 2001、p.264.</ref>。
*伊勢[[津藩]]主・[[藤堂高兌]]は藩政改革の一環として、津に藩校有造館を、伊賀上野に支校[[崇広堂|崇廣堂]]を設立した。これに当たって、当時既に名君の誉れ高かった治憲の徳を慕って、崇廣堂の扁額の揮毫を依頼した。扁額裏には治憲の署名と[[文政]]4年([[1821年]])とある<ref>[[三重県立博物館]]"[http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/haku/osusume/suukoudou.htm 崇廣堂扁額]"</ref>。
*{{要出典範囲|date=2012年7鷹山は幼いころに高鍋藩から上杉家の養子になったが、高鍋藩秋|当時家の家老、三好善太郎重道が幼い鷹山に送った手紙が残されており、そこには、米沢藩で奸臣を立て直すには直江兼続に学べ見なさ書かれている<ref>{{Cite web |url=https://n-story.jp/topic/17/ |title=上杉鷹山の師は直江兼続 |access-date=6 Apr 2024 |publisher=新潟県 |website=新潟文化物語 file-17 直江兼続の謎 その2~上杉家の関ヶ原~}}</ref>。[[直江兼続]]}}の200回忌法要に香華料を捧げたという。このことから、20世紀に入り一転して兼続が称揚されるようになると鷹山が兼続を再評価したとされ、'''鷹山の施政の多くは兼続の事業を模範にしたものとされた'''<ref>“[http://okibun.jp/youzan/ 上杉鷹山]”. ''置賜文化フォーラム''</ref>。
*江戸時代の大名は隠居後にはほとんどが江戸屋敷で暮らしたが、上杉家では隠居生活を米沢で送るのが慣例であった。{{要出典範囲|date=2017年5月|近年の研究では、治憲の30歳代での隠居は参勤交代を気にせずに改革に専念する理由もあったからという考察がある。}}なお、幕府は諸大名が隠居後に領国に定住するのは好まないというのが建前であったが、上杉家では常々、脚痛治療のための長期間の湯治の名目で幕府老中に届出を出していた(幕閣もわかった上で許可を出している)。
*藩主の称号は謙信以来の'''御[[屋形]]様'''であり、隠居した先代は'''大殿様'''であった。治憲は早くに隠居したため先代の重定が健在であり、'''中殿様'''と呼ばれている。
*[[天明]]7年([[1787年]])8月に実父の[[秋月種美]]の危篤の報を受け江戸へ出立し、長者丸(品川区上大崎)の高鍋藩邸へ日参して30日間かかさず看病を続け、臨終を看取った。その直後、江戸で服喪中に今度は養父の重定が重病との報があり、実父の四十九日法要後すぐさま米沢に帰国した。翌年2月までの80日間看病を続けて快癒させたが、一時危篤状態に陥った時には数日間徹夜で看病したという。