梅北国兼
梅北 国兼(うめきた くにかね)は戦国時代の武将。島津氏の家臣で、蒲生氏降伏後の大隅国山田(現:鹿児島県肝属郡南大隅)の地頭となり、後に薩摩国湯之尾(現:鹿児島県伊佐郡菱刈町)の地頭となって、島津軍の水軍を指揮した。文禄元年(1592年)に起きた「梅北一揆」の首謀者。
{{{このテンプレートは廃止されました。}}}
| |
---|---|
時代 | 戦国時代 |
生誕 | 不明 |
死没 | 文禄元年6月17日(1592年7月25日) |
官位 | 宮内左衛門尉 |
主君 | 島津貴久、義久、義弘 |
氏族 | 肝付氏 |
父母 | 梅北兼弘 |
経歴
天正6年(1578年)と同14年(1586年)に大友氏との合戦において武功を挙げる。
文禄元年6月15日(1592年7月23日)、国兼は梅北一揆を起こす。この一揆では、国兼をはじめとする島津家臣が文禄の役の際に加藤清正が治める肥後国佐敷城を占拠し、これに町人や農民が加わった総勢700ないし2000人が八代の麦島城を攻撃した。動機は、朝鮮出兵への反発にあったとも、豊臣秀吉の支配に対する反発にあったともいわれる。
国兼は6月17日に清正の部下の策略によって殺され、反乱はわずか3日で鎮圧されたとされていたが、近年、佐敷城の占拠は15日間に及んだとする説が浮上している。いずれにしても一揆は鎮圧され国兼は戦死した。国兼の首は朝鮮出兵の前線基地であった名護屋城に届けられて浜辺に晒され、胴体は佐敷五本松に埋められたという。累は国兼の家族にも及び、国兼の妻も捕らえられて名護屋城に連行され火あぶりの刑にされた。死に及んでも取り乱さなかった彼女の姿をルイス・フロイスも「異教徒ながら天晴れ」と褒め称えている。(『日本史』)
その後、国兼は旧領である大隅国山田庄において神として祀られた。現在も鹿児島県姶良郡姶良町北山には国兼を祀る「梅北神社」が残っている。境内には西郷従道が奉納した石碑がある。