丘長春
丘 長春(きゅう ちょうしゅん、簡体字: 丘 长春、拼音: 、1148年(皇統8年)-1227年(太祖22年))は、金末期から元初期の道教の新興教派・全真教の道士。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/52/Changchun-Temple-Master-and-disciples-painting-0316.jpg/350px-Changchun-Temple-Master-and-disciples-painting-0316.jpg)
経歴
山東省棲霞の出身で、全真教の開祖王重陽について学び、その高弟を指す「七真人」の中でも筆頭と目された。全真教の歴史において、開祖王重陽の実質的な後継者として教派を隆盛に導いたのは、丘長春の功績である。
また、1222年に西アジア遠征中のチンギス・ハーンの招請を受けるや、その高齢を省みることなく弟子たちを引きつれて遠く西域まで赴き、現在のアフガニスタンでチンギス・ハーンに拝謁し、なおかつ不老長生の秘訣を問うたチンギスに全真教の教えを説いたことでも広く知られている。また、太師の耶律阿海、耶律楚材らの功績を褒め称えた。
チンギス・ハーンはこの労に報いて長春にモンゴル帝国の占領地における全真教保護の特許を与えた。『長春真人西遊記』、『玄風慶会録』は、その西域遊方の時の記録であり、一行が旅程で通過した当時のモンゴル高原および中央アジアに関する非常に貴重な情報となっている。
名言
『長春真人西遊記』によると、チンギス・ハーンから「遠路はるばる来られたからには、朕に役立つ長生の薬を、何かお持ちになられたのであろうか」と下問された丘長春は、
- 「衛生の道あり、されど長生の薬なし」(原文:「有衛生之道、而無長生之薬」)
と喝破した[2]。
不老不死の薬など迷信に過ぎない、養生の道こそが大切である、という意味である[3]。