倪 嗣沖(げい しちゅう)は、清末民初の軍人。北京政府安徽派に属した。丹忱。もとの名は毓桂。甥は倪道烺

倪嗣沖
プロフィール
出生: 1868年同治7年)
死去: 1924年民国13年)7月12日[1]
中華民国の旗 中華民国直隷省天津市
出身地: 清の旗 安徽省潁州府阜陽県三塔
職業: 軍人
各種表記
繁体字 倪嗣沖
簡体字 倪嗣冲
拼音 Ní Sìchōng
ラテン字 Ni Szu-ch'ung
和名表記: げい しちゅう
発音転記: ニー・スーチョン
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事跡

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清で秀才となったが、まもなく李鴻章淮軍に参加した。1895年光緒21年)、袁世凱配下となって新建陸軍に加わる。1907年(光緒33年)、政府に金銭を献納して知府候補となる。東三省総督徐世昌により、奉天提法使、黒竜江民政使兼巡防軍翼長に任命された。しかし、1909年宣統元年)に徐世昌の後任として錫良が就任すると、倪嗣沖は汚職を理由に罷免されてしまった。1911年(宣統3年)10月、河南布政使・幇弁河南軍務となり、まもなく安徽布政使に異動した。

1912年民国元年)、武衛右軍翼長・督弁皖魯豫蘇四省交界事宜に任命された。翌年、安徽清郷督弁、皖北鎮守使、安徽護軍使、安徽都督兼民政長と歴任した。1914年(民国3年)、安武上将軍の位を授与され、督理安徽軍務となった。

1915年(民国4年)、袁世凱が皇帝即位の準備を開始すると、倪嗣沖は他の14人の北洋系軍人とともに袁世凱を推戴する。同年12月、袁世凱の皇帝即位に伴い、一等公に封じられた。1916年(民国5年)4月、長江巡閲副使兼署安徽省長に異動した。また、この間、護国戦争第三革命)に際しては、袁世凱を最後まで支持し、袁世凱が皇帝即位を取り消そうとしたときも、これに反対したほどであった。

同年6月6日に袁世凱が死去すると、倪嗣沖は、段祺瑞が指導する安徽派の中心的人物となり、7月に安徽省長に就任した。府院の争いでは、段祺瑞を支持して黎元洪の追い落としを図り、9月には倪嗣沖が指導的立場となって安徽派督軍による「十三省連合会」(いわゆる「督軍団」)を組織した。1917年(民国6年)の張勲による復辟では、これを密かに支援する。しかし段祺瑞が張勲の討伐を開始すると、倪嗣沖は態度を豹変させ、南路討逆軍総司令として張勲討伐に参加した。復辟失敗後、倪嗣沖は長江巡閲使兼安徽督軍として、依然として安徽派の中心にあった。しかし、1920年(民国9年)7月の安直戦争で段祺瑞が敗北すると、倪嗣沖も9月に罷免され失脚した。

1924年(民国13年)7月12日、天津で病死。享年57。

脚注

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  1. ^ 徐友春主編『民国人物大辞典』は、8月9日としている。

参考文献

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  • 蕭棟梁「倪嗣沖」中国社会科学院近代史研究所『民国人物伝 第12巻』中華書局、2005年。ISBN 7-101-02993-0 
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
孫多森
安徽都督
1913年7月 - 1914年6月
次代
(将軍に改称)
先代
(都督から改称)
安徽将軍
1914年6月 - 1916年4月
次代
張勲
先代
張勲
安徽督軍
1917年7月 - 1920年6月
(1917年9月まで署理)
次代
張文生
先代
張勲
長江巡閲使
1917年9月 - 1920年9月
次代
李純