おたく

日本でポップカルチャーの愛好者を指す言葉

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Otaku (Otaku u Otaku) es un término utilizado para referirse a los entusiastas. Es una palabra que se extendió desde la subcultura. Originalmente, ``Otaku era un pronombre honorífico de segunda persona que se refería a la casa o familia de la otra persona, pero ahora se usa como una palabra que se refiere a los amantes de una determinada subcultura. de "Otaku" se remonta a 1983 cuando el columnista Akio Nakamori se reunió en "Comic Market [[Ciencia ficción|SF] ], Manga, Anime y otros jóvenes Fans se llamaban entre sí "Otaku", burlándose de ellos. Esto se debe a que fue clasificado como un nerd. .

東京・秋葉原の電気街。中央通り万世橋から第一半田ビルを望む(2013年)
秋葉原駅頭。改装前の秋葉原ラジオ会館が見える(2003年)

In dem [[1989] aufgedeckten Fall einer Serienentführung und eines Mordes in Tokio/Saitama sammelte Täter Anime, Spezialeffekte usw. Die große Anzahl von Videobändern und Manga-Magazinen wurde von den Medien mit dem Vorfall in Verbindung gebracht und es kam weltweit zu Otaku-Bashing, und ironischerweise ist das „Otaku“ zu seiner Existenz geworden der breiten Öffentlichkeit weithin bekannt. Daher sind am Anfang Menschen mit Hobbys wie Manga, Anime, Computerspiele, Idol usw. Es wurde oft als Wort mit negativer Konnotation verwendet und bezog sich auf Menschen, denen soziale Fähigkeiten fehlen oder die schlecht in der zwischenmenschlichen Kommunikation sind.

その後、1990年代後半からのインターネットの普及やアニメや漫画、コンピュータゲーム、アイドルの社会的地位の向上によりおたくへの悪い印象は薄れ、現在では単なる「ファン」や「マニア」と同義で使われることも多い。 أوتاكو هو أسوأ القرف الياباني على الإطلاق.

歴史

起源

 
最初期のロリコン同人誌『愛栗鼠』『シベール』『幼女嗜好』を創刊し、1980年代前半のコミックマーケット変質者のコスプレで出没していた蛭児神建大塚英志は「中森明夫が『おたく』の語をもって外からコミケに集う人々をカリカチュアライズするより前に蛭児神建の異装は既におたく自身による『批評』としてあった」と評している[1]

「おたく」の元の語源は、相手の家を指す敬称である「御宅」であり、転じて相手の家庭、夫を指す二人称代名詞として使われた[2]。1950年代からの学生運動により、青年層を中心に、相手個人を指す敬称としても使われ始めた。「あなた」や「きみ」と比べて距離をおいた呼びかけ[3]としてその後、若者言葉のような形で一般的に使われるようになった。

「おたく」が「おたく」と呼ばれる以前の歴史は、それほど研究されていない。内田樹は、「SF」から「オタク」へのテイクオフは1960年代後期の少年文化の「過政治化」に対する反動であり、自閉的で自分の立ち位置について客観的に語ることができないとしている[4]

1982年から放送されたロボットアニメ超時空要塞マクロス』の中で、主人公の一条輝リン・ミンメイ相手に「御宅(おたく)」という二人称を使う場面があり、ファンがコミケやSF大会などでこの呼び方を真似たことで[5][6] 、アニメファンの中で相手を指し示す際の「おたく」という言葉の用法が広まったとされる。

ある特定のジャンルのサブカルチャーを好きな人そのものを指し示す、現在使われている意味・言葉としての「おたく」は、日本で2番目となるロリコン漫画雑誌『漫画ブリッコ』(白夜書房、当時はセルフ出版)1983年6月号から8月号まで中森明夫が連載した『東京おとなクラブ』の出張コーナー『東京おとなクラブJr.』[7]内のコラム「『おたく』の研究」が初出とされている。中森はコミックマーケット(コミケ)に集まる人々を「おたく」として活字で次のように表現した。

その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。(中略)

それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!それも普段メチャ暗いぶんだけ、ここぞとばかりに大ハシャギ。(中略)もー頭が破裂しそうだったよ。それがだいたいが十代の中高生を中心とする少年少女たちなんだよね。(中略)

それでこういった人達を、まあ普通、マニアだとか熱狂的ファンだとか、せーぜーネクラ族だとかなんとか呼んでるわけだけど、どうもしっくりこない。なにかこういった人々を、あるいはこういった現象総体を統合する適確な呼び名がいまだ確立してないのではないかなんて思うのだけれど、それでまぁチョイわけあって我々は彼らを『おたく』と命名し、以後そう呼び伝えることにしたのだ。 — 『漫画ブリッコ』1983年6月号、『おたく』の研究(1)街には『おたく』がいっぱい[8]

また、中森はコミケに集まる人々の他の特徴として、「ブルトレ撮りに行って線路上でひき殺されそうになる奴」(当時は「撮り鉄」という呼称はなかった)、「アニメ映画の公開前日に並んで待つ奴」、「マイコンショップでたむろってる牛乳ビン底メガネの理系少年」、「S-Fマガジンのバックナンバーとハヤカワ・SF・シリーズが本棚にビシーッと揃ってる奴」、「有名進学塾に通ってて、勉強取っちゃったら単にイワシ目の愚者になっちゃうオドオドした態度のボクちゃん」などを挙げ、そうした普段は暗いのにコミケだとやたらにはしゃぐ少年少女、理系やガリ勉、そして対人コミュニケーションが不得意な人らを一括りにして、「おたく」と命名した。

中森が同連載で「中学生ぐらいのガキがコミケとかアニメ大会とかで友達に「おたくら さぁ」なんて呼びかけてるのってキモイと思わない」「けどあのスタイルでしょ、あの喋りでしょ、あのセーカクでしょ、女なんか出来るわきゃないんだよね」[9]といった差別的な文章を書いたことで、読者から怒り・反感の投書が殺到した。編集としても静観するわけにもいかず、1983年8月号で「『おたく』の研究」は休止となり、1983年9月号の読者投稿欄「新宿マイナークラブ」では、代表的な読者の反応を掲載するとともに、編集部の大塚英志は「相手の立場をからかうなら自分の立場をふまえてからでないと、単なる誹謗中傷に終わってしまいます。その意味で非生産的な中森君の文章は困ったものだと思い、改善を求めておりました」と中森を非難した[10]。一方、雑誌内雑誌『東京おとなクラブJr.』の担当編集者であった小形克宏(旧・緒方源次郎)は「ちょっと後味悪いけど、まあ別にいいんじゃないって思ったのに、相棒だった大塚英志さんが許さず、彼との間で議論になりました。『ブリッコ』は僕と大塚さんとできっちり担当を分けていたので、僕のページに口を出されるのは心外だったんですけど、結局大塚さんに『読者の悪口は載せられない』と言い負かされました」と同人誌のインタビューで証言しており、大塚の一連の言動は、担当者の枠を超えた越権行為まがいの容喙であったとしている[11]

その後、「『おたく』の研究」は1984年1月号で終了したが、大塚は1984年6月号の読者投稿欄で再度、「おたく」についての立場表明を行い、「中森氏の『おたくの研究』についてぼくは担当の緒方に対し毎回、『不快感』を表明してきました。中森氏の文章は<健全な批判>ではなく<差別>を目的としたものと目に映ったからです」と改めて非難したが、その一方で「最終的には登場をご遠慮願うことになったのですが、意外だったのは中森氏の文章に読者を含めて、相当の支持者がいたことです。たしかに感情的な文章と<おたく>という語の差別用語としての秀逸さ(?)は無責任におもしろがるには充分のものだったといえます。結局のところ、<おたく>なる語はすっかり定着してしまいました」と述べた[12]

岡田斗司夫は、おたくを「収容所に入れられた囚人」であるとしてこう語っている[13]

「おたく」という言葉がない時代は、いろんな種族がいただけでした。SFファンとかアニメファンとかマンガファン、個別の作品とか個別のジャンルのファンがいたわけです。

それを外側からひとまとめにして、ああいう奴らを「おたく」と言うんだと決めつけられてから、私たちの民族が発生した。だから、正確に言うと民族じゃなくて私たちはもともとは他者から「強制収容所に入れられた囚人」でした。

あるときから、「ヘンなやつら強制収容所」が作られた。そこに収容される理由は様々でした。まずは「アニメ好き」「マンガ好き」「ゲーム好き」という人たちがぽんぽんと放り込まれた。それだけではなくて「なんか暗い」とか「なんか社会性がない」という人たちまでも、ぽんぽん放り込まれていった。この収容所の看板が「おたく」でした。 — 『オタクはすでに死んでいる』(新潮新書, 2008年) - p.52-53

なお、竹熊健太郎と『漫画ブリッコ』元編集部の小形克宏は、当時を振り返って「おたく」という造語がシニカルながらも秀逸なネーミングであったことを認めつつ、命名者の中森明夫に対して、ある種の違和感を抱いていたことを次のように語っている。

竹熊 中森氏の「おたくコラム」について、担当者としてはどう考えていたんですか? そう言えば聞いた事がなかったけど。
小形 そうだなあ、「庇いきれなくてごめん」って感じだなあ。
竹熊 あれ、「差別文章」だとは思いました? 僕はきついなあ、と思ったけど、げらげら大笑いした記憶があります。
小形 そうだなあ、きつかったよねえ。でも中森氏の持ち味だからねえ。まあ、おれが感じたのは「中森くんだって、この中に書かれているおたくじゃないのかなあ」ってことかな。そして「おれもそうだなあ」ということ。そうでしょ?
竹熊 中森くんも小形くんも、僕も、大塚さんだってオタクだよね。それで、本が出て2ヶ月後のコミケでは、もうみんな「おたく」って言い合ってました。最初はオタクが自分の事を自嘲するスラングでしたよね。
小形 そうだね。でも、中森氏は一貫して「自分はオタクじゃない」って言ってる。すごい不思議だけど。大塚氏もきっと違うと思っていると思う。確かめたことないけど。
竹熊 不思議だよねえ。周囲のオタクはむしろ喜んで使ってた感じだったけどねえ。とにかく「あ、それ!」と膝を打つぴったりなネーミングだった。
小形 そうね、なんとなく意識していた程度のものに、名前が付いて以降意識せざるを得なくなった瞬間。
竹熊 なんかもやもやとあったけど、名前がついて一挙に定着した感じだよね。でもオタクが一般化したのは、やはり7年後の宮崎事件でしたね。あれでマスコミが使い出して自嘲語から差別語になった印象があります。
小形 あの時、中森氏が電話かけてきたんだよね。「大塚さんの連絡先教えて」って。「悪いけど今は知らないんだ」って答えたけど。自分から大塚氏に連携を呼びかけようとしていた。昔打ち切られたのに、偉いなあってすごく感心した。

おたくの語源―”非”大塚英志史観の『漫画ブリッコ』再検証

宮崎勤事件

1988年から1989年にかけて発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件(以下「宮﨑勤事件」)において、犯人の宮崎勤が収集していた特撮アニメホラー映画ビデオテープ、漫画やアニメ雑誌などをマスコミメディアが取り上げ、「現実と虚構の区別が付かなくなり犯行に及んだ」として、センセーショナルに報じた。その際、宮崎の個室部屋が報道され、4台のビデオデッキと6000本近いVHSビデオテープが万年床を乱雑に囲んだその部屋は、犯人の異常性を示すものとして注目を浴びた。当時まだ一般に浸透していなかった“おたく”という人格類型の呼称が定着したのも、この事件によるものだった。ただ、宮崎の部屋は殺人犯特有の特殊なものというよりは、オタクの部屋にしばしばみられる傾向として、オタクたち自身にも認識されている[14]

この事件により、「おたく=変質者・犯罪者予備軍」というイメージが定着し、おたくは印象の悪い言葉として広まった。この時期、「おたく」という言葉はNHKでは放送禁止用語とされ、使用できない言葉であった[5]。現在でもこの影響は残っており、おたくを性犯罪と結びつける報道がなされることがある[15]

自称おたく評論家「宅八郎」

宮崎勤事件によって「おたく」に注目が集まる中、無署名で活動していたフリーライターが1990年に『週刊SPA!』上で、おたく評論家宅八郎」としてデビュー。翌年の1991年にワンレングスの長髪に銀縁眼鏡マジックハンドアイドルフィギュア、手提げ紙袋を持つという姿でテレビ番組に出演し、強烈なインパクトを残した。いわゆるオタク史の中の位置づけとして、宅八郎は宮崎勤事件と並んで「オタクの間違ったイメージを広めた」存在として語られることが多い。宅八郎と長年交流のあった大泉実成は、宅について、「彼にはオタクのプラス面をアピールしたいという思いがあった。ただ、その擁護の仕方がめちゃくちゃで、誤爆のようなところがあった」と振り返っている。宅のメディアでの風貌は作られたものであり、オタクに見える服を着て、おたくを演じていた。大泉は、「オタクと呼ばれていた当事者たちからは、演じていることはバレバレ。迷惑でもあっただろう」「オタクの歴史を語るうえでは、あだ花のような存在でしょう」と語る一方で、宅の著書『イカす!おたく天国』について、「負のイメージが強かったオタクを、特定の分野に特化した優秀な存在として社会に伝えた。その意味はあると思う」と評している[16]

イメージの好転

1990年代前半には、依然として「おたく=変質者・犯罪者予備軍・社会不適応者」とみなす論調があり、1991年にはコミケ幕張メッセ追放事件が起きた。

一方で1990年代後半からは、海外で日本の漫画やアニメ、ゲーム等が流通していることが徐々に知られるようになり、1995年から放送された『新世紀エヴァンゲリオン』が、社会現象と評されるほどのヒットとなって多くのメディアで取り上げられたことや、一般向け作品ではあるが1997年のスタジオジブリ作品で宮崎駿監督の『もののけ姫』が、当時のアニメ映画としては異例の興行収入193億円のメガヒットを記録するなど、アニメや漫画などが公平に報道・評価されることも増えつつあった。

そのような流れもあり、1996年にはNHKBS2で、漫画を紹介・解説する『BSマンガ夜話』が放送を開始するなど、漫画やアニメといったサブカルチャーが、小説実写映画等といったメインカルチャーと同じ土俵で語られることも徐々に増え始めた。

また、『AKIRA』(1986年)や『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(1995年)といったアニメや漫画が海外のクリエイターにも大きな影響を与え、更にはその二作品にも影響を受けた、1999年公開のハリウッド映画マトリックス』が、世界的に大ヒットを記録した事などがきっかけで、日本でも「ジャパニメーション(Japanimation)」が逆輸入的な形で評価され始めた。

岡田斗司夫は、1980年代後半から1990年代までのオタクを取り巻く状況について、こう語っている。

(オタクに対する誤解をなんとかするためには)2つ方法がある。1つは魅力そのものを伝えてオタクというのは実は面白くて「こうだ」っていう方法。もう一つは、お前らは知らないだろうけど、海外では俺達ちょっとしたもんだぜっていうこの二面作戦でオタクって実は大したことあるよという底上げ作戦を展開したんですね。それはその後、海外でのオタク評価は本当に上がってきたりですね、「エヴァンゲリオン」が大ヒットしたりですね、ものすごい後押しがあったんですね。時代の後押しがあったおかげで、なんだかんだいってもオタクは80年代の暗黒の時代から90年代の後半になるにつれて、かなり楽な状況になってきた。
だから僕たちは、なんかこう「オタク」と言えるようになったんですね、自分のことを。ロフトプラスワンで「オタクのイベントだ」と言って人が来るようになったのそれのおかげなんですよ。それまでは「オタクのイベントだ」と言うと、何よりもオタクが来れなかったんですね。オタクと思われたら困るっていう風に思ってた。それがなんか90年代半ばのオタク状況。(中略)
世の中が急激にそのオタクを認めるようになった。1つは、お前らがやってることって案外面白いんだなってのが、ようやっと評価されてきた。それはエヴァンゲリオンとか色んな作品のヒットのおかげですね。あともう一つ、海外で一流の監督とかが皆オタクだと自分のことを言ったり、よその国ではセーラームーンとかそういうコスプレしてる奴がガンガン出てきて、僕らのヘンテコさがなんとなく相対化されたんですね。僕らが相変わらずヘンテコなのは当たり前なんですけども、海外にもヘンテコな奴がいるからなんだこれ?って。日本の中の変な奴じゃなくて、世界でいえば普遍的な奴なんだ。あいつら面白かもわかんないなみたいな目線で見てもらえるようになったのが僕らがちょっとだけ生きやすくなった理由ですね。 — 『オタク・イズ・デッド』(新宿ロフトプラスワン, 2006年5月24日)

また、岡田はこのようなおたくへの評価が好転した要因として、「オタクたちの努力だけではなく、日本経済が行き詰まっていたことも挙げられる」と述べている[17]。財界人からもオタク文化に期待する声が寄せられた。

日本人は、日本発のものは世界に評価されるはずはないと思っている。桂離宮から浮世絵まで、外国人が評価したものだけを日本文化と称してきたが、それは違うのではないか。

漫画こそ、日本が世界に誇りうる独自の文化で、これからもっと世界に浸透していくだろう。マルチメディア時代になれば、コンビューターソフトと結びついておもしろい社会をつくると思う。世界に広がる漫画が、管理教育、官僚文化に風穴を開けてほしいものだ。

インターネットの他、ますます複雑・高度化する情報ネットワーク網の中で作品を作り続け、ヒットさせる実力を持つ者はオタク・クリエイターしかいない。現に、日本のアニメーターたちは日本よりもアメリカ等海外での評価が高い。本当の国際競争力を持つクリエイターとは、オタクの中からしか生まれないのだ。 — 堺屋太一[18]

批評家の東浩紀1990年代の不況と関連付けて分析をしている。

消費社会化が行くところまで行った今日、日本人が「日本的である」と思う風景は、もはやフジヤマゲイシャではないでしょう。(中略)1990年代の長い不況のなかで、残ったのはコンビニケータイぐらい。『アキラ』のような格好いいサイバーシティはやってこなかった。そういう絶望と正面から付き合ってきたのが、オタクたちだったわけです。ニセモノとサブカルチャーしかない世界でどのように誇りをもって生きていけばいいのか。オタクたちはそんな物語ばかり紡いでいる。そしてそれはいまでは日本全体の問題でもある。 — 東浩紀、2002年[19]

2000年代 オタクのカジュアル化

2005年(平成17年)には、アキバ系アニメオタクの青年が主人公である、2ちゃんねる発の恋愛小説電車男』が映画化及びフジテレビゴールデンタイムでドラマ化され、女性層や若年層を中心にヒットしたことで、宮崎事件以降長らく続いていた、オタクへの否定的なイメージが払拭されるきっかけとなった。この頃にようやく、変質者犯罪者予備軍などといった、マイナスイメージではないオタク像が世間一般に広く認知されるようになり、マンガアニメといった二次元文化が、カジュアルな趣味として市民権を得るようになったといえる[20]。その市場規模については、2005年時点で4110億円(野村総研調べ)と推定され、有望な市場としても注目が集まった[21]

同時にオタクバッシングの波も続いており、「ゲーム脳」「フィギュア萌え族」の提唱、アニメソング「なくなってほしい」発言騒動[22]なども起きたが、更には同年の流行語大賞に「萌え」や「メイドカフェ」がノミネートされるなど、オタク文化が世間一般に広まり始めた[23][15]

一方で、それまで副次的な要素にすぎなかった「萌え」文化も、おたく文化の主要な要素とみなされるようになり、「おたく=何かに萌えている人」「おたく=秋葉原にいる人」という偏見も生まれ、「オタク=アニメ・アイドルのオタク」というイメージがより一層強まる結果となった。

この頃には日本のアニメや漫画に強く影響された外国人の存在が徐々に知られるようになり、おたく文化が外国人から注目されていることが知られるようになったため、その評価が逆輸入される形でも地位は向上した。2003年(平成15年)には、おたく文化に強く影響を受けた外国人によって英語圏最大の匿名掲示板4chan」が開設され、アニメや漫画に特化した大規模なコミュニティ英語圏にも生まれた。

2000年代後半からは動画投稿サイトにより、ゲームの「実況プレイ」や、『初音ミク』を使用したVOCALOID楽曲などが流行し、同時期の深夜アニメバブルを追い風に、2006年の『涼宮ハルヒの憂鬱』などの深夜アニメ作品がインターネットで人気を博した[20][24]

2007年(平成19年)に大学生を対象に行われた調査によると[要出典]、おたくが受容される傾向にあることが示され、オタク文化への認知が進んだ。調査では、自らがおたくであると思い当たるフシがある、親しい友人におたく的な人がいると答えたものが増加しており、おたくの内集団化が進んだとされる。

また、2007年には、麻生太郎外務大臣(当時)がサブカルチャーを利用して日本を代表する外交活動を行い、外国人漫画家に贈られる「国際漫画賞」を創設した[25]

2007年放送の『らき☆すた』では、所謂「聖地巡礼」がブームとなり、それを地元の自治体町おこしに活用するという現象も生まれた。そうした一連の流れを「萌えおこし」と称することもあり、以降、このような聖地巡礼や萌えおこしは他作品でも一般化していくことになる。

一方で大塚英志は、世間のオタク観をこう批判している。

「おたく」なる語が「オタク」と片仮名に書き換えられるあたりから文部科学省経済産業省や、ナントカ財産〔ママ〕の類がちょっとでもうっかりするとすり寄ってくる時代になった。ぼくのところでさえメディアなんとか芸術祭という国がまんがやアニメを勝手に「芸術」に仕立て上げようとするばかげた賞がもう何年も前から「ノミネートしていいか」と打診の書類を送ってくるし(ゴミ箱行き)、そりゃ村上隆宮崎アニメは今や国家の誇りってことなんだろうが、しかし「オタク」が「おたく」であった時代をチャラにすることに加担はしたくない。国家や産業界公認の「オタク」と、その一方で見せしめ的な有罪判決が出ちまった「おたく」なエロまんがはやっぱり同じなんだよ、と、その始まりの時にいたぼくは断言できる。国家に公認され現代美術に持ち上げられ「おたく」が「オタク」と書き換えられて、それで何かが乗り越えられたとはさっぱりぼくは思わない。 — 大塚『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』著者からのコメント[26]

2010年代 大衆文化との逆転現象

2010年代以降、iPhoneAndroidが普及し、PCよりもスマートフォンインターネットに全世代が触れるようになった。テレビ、電子掲示板動画共有サイトTwitterなどのSNSなどでオタク文化が拡散したことで、マニアックな話題で交流を行うことが広く理解された。

2010年頃から、「AKB48」や「ももいろクローバーZ」などのブレイクによりアイドルブームが起こった。AKB48のヒットにより、「推し」という言葉が一般化し、女性アイドルだけではなく男性アイドルやアニメのキャラクターなど、様々なジャンルでも使用されるようになった。

オタクという呼称そのものも半ば陳腐化し、「オタ」と気軽な呼び方で使用されたほか、「鉄オタ」「特撮オタ」のようにファンやマニアと同義に使われることが増えた。

2010年代後半から、「Netflix」や「Amazonプライム・ビデオ」をはじめとした定額制動画配信サービスの台頭で、映像作品に触れる機会が多くなってきたことからオタクに憧れる若者も増えてきている。その背景として、博報堂DYメディアパートナーズ森永真弓は、世間からの「個性的でなければいけない」という外圧により、「無理して個性を作らなければいけない」と焦る若者が増えているとして、その理由を「カルチャーシーンから“メジャー”が消えてしまったから」だと分析し[27]、「属するだけで安心できていたメジャーが消えてしまった今、彼らが探しているのは、要は“拠りどころ”なんだと思います。自分が属しているだけで、楽しいと思える場所。それが、オタクという属性です。(中略)推し活動をしているオタクはすごく輝いているから、自分もああなりたいと切望する。もしそうなれて、オタクという属性を手に入れられれば、結果的に自分は“個性的”にもなれる、と捉えている。だから正確に言えば、“オタクになりたい”んじゃなくて、“拠りどころになりうる、好きなものが欲しい”だし、それは“個性的な自分でありたい”だし、一番正直に言うなら“自己紹介欄に書く要素が欲しい”なんですよね」と語っている[28]

原田曜平は、非常に多くの若者たちが、自分のことを「オタク」と自称するようになっていることを挙げ、本来であれば、サブカルチャー好きを指す言葉である「オタク」というワードが、メジャーなカルチャーにまで使われるようになってきていることに驚いたと述べている。また、話題になった作品だけをチェックしており、オタク知識は総じてそう深くない「エセオタク」が増えており、濃度の高いオタク(ガチオタ)からは「にわかオタク」と揶揄されることもある[29]

また、日本政府観光資源の一環として、国策で「クールジャパン」戦略を行うようになったのも2010年代からであり、迫害から一転し、おたく文化は政府お墨付きの“体制側”の文化になったとも言える。

オタク層は選挙の動きも左右するほどになっており、第25回参議院議員通常選挙自民党山田太郎が当選した際には、オタク票を味方につけたことが勝因と評された[30]第26回参議院議員通常選挙では漫画家の赤松健自民党)が比例トップ当選し、自民党内の組織票系候補者すら軽く上回っている[31]

2016年に行われた調査によると、18歳から29歳の間で好きなテレビ番組のうち、10年前から大きく伸びているジャンルが「アニメ」であり、20pt以上増加しているのに対して、「音楽」「スポーツ」が10pt以上低下している。また、若者女性も男性と同様に、大きく伸びているのは「アニメ」で、「音楽」「現代ドラマ」が約10ptダウンするなど、若者の好きなテレビ番組を2006年と比較すると、男女ともに「アニメ」が大きく上昇している。一方で、「バラエティ番組」「音楽」「スポーツ」「テレビドラマ」が低下するなど、テレビ番組に対する好みが10年間で大きく変化しており[32]、アニメとスポーツやテレビドラマ等といった大衆文化メインカルチャー)との、人気の逆転現象が見受けられる。

おたくの変遷

「おたく」の意味や定義は世代によって大きく異なる。そのため、おたくを題材とした評論では、1960年前後生まれを第一世代として10年ごとに1970年前後生まれを第二世代、1980年前後生まれを第三世代と、世代で分類することが多い。世代が下がるにつれて「ライトなオタクが増えている」との指摘もある[33]。ここでは個人の違いは捨象し、世代ごとの大まかな傾向を概観する。

オタク以前

おたくという言葉が生まれる以前は、おたくの同義語として、主に「マニア」やきちがいを略して「○○キチ」(釣りキチ等)「ファンダム」等と呼ばれていた。
基本的にはSFと特撮ファンが中心で、流行した作品に『キング・コング』(1933年)や『原子怪獣現わる』(1953年)初代『ゴジラ』(1954年)『キングコング対ゴジラ』(1962年)『大魔神』(1966年)『2001年宇宙の旅』(1968年)「猿の惑星シリーズ」(1968年~1973年)や、『鉄人28号』等がある。

オタク第一世代(1960年前後生まれ)

テレビの発展と共に育った世代で、アニメに抵抗のない最初の世代といえる。
幼少期、少年期に流行したテレビ番組に第1期『ウルトラシリーズ』Qマンセブン)のほか、『オバケのQ太郎』(モノクロ版)、『魔法使いサリー』、『巨人の星』、『8時だョ!全員集合』、『仮面ライダー』、『天才バカボン』、『世界名作劇場』シリーズ、『ルパン三世』、『マジンガーZ』、『宇宙戦艦ヤマト』などがある。
怪獣ブーム変身ブームを体験した世代であり、特撮オタクとなった者も多い。
いわゆる断層の世代(概ね中期しらけ世代の世代)、もしくは新人類(概ね後期しらけ世代から前期バブル世代までの世代)である。
「大人になったらアニメや漫画は卒業する」という考え方がまだ根強い時代でもあったため、同世代の大半はインドアなオタク文化ではなく、主に電通などの広告代理店フジテレビホイチョイ等が主導していた、ネアカ恋愛至上主義的文化や、スキーブーム等のアウトドアを消費するのが主流であった。そのため、オタク文化がまだ珍しいサブカルチャーとしてネクラ扱いされつつも容認されていた時代に青年期を過ごしている。
しかし、1989年に発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件の犯人が同世代であったため、主に年長者やオタク趣味を持たない同世代から、偏見差別を受ける原因にもなった。

オタク第二世代(1970年前後生まれ)

前の世代が作り上げた爛熟し細分化したオタク系文化を10代で享受した世代[34]
いわゆる後期バブル世代から団塊ジュニア氷河期世代である。
代表的な出来事として、『週刊少年マガジン』『週刊少年サンデー』『週刊少年ジャンプ』などの少年漫画誌の隆盛、『機動戦士ガンダム』や『銀河鉄道999』『うる星やつら』に代表されるアニメブームガンプラブーム、「ファミリーコンピュータ」(1983年)の大ヒットによる家庭用ゲーム機の普及、『ゼビウス』(1983年)などのアーケードゲームのブーム、「PC-9800」や「MSX」等のホビーパソコンマイコン)ブーム、『スター・ウォーズ』(1977年)『E.T.』(1982年)『ターミネーター』(1984年)『ブレードランナー』(1982年)などのSF映画サイバーパンク作品の世界的なブームなどが挙げられる。
アニメ雑誌の相次ぐ創刊、「アニメイト」などの専門店の創業、コミックマーケットの大規模化、美少女ゲームアダルトゲームの登場など、オタク文化や二次元文化が急速に発展する一方で、オタク第一世代と同様に、青年期に発生した東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件によってオタクバッシングが激化し、偏見・差別に晒された世代であった。

オタク第三世代(1980年前後生まれ)

後期ポスト団塊ジュニア世代~プレッシャー世代。就職氷河期の後半の世代にあたる。
彼らの少年期は、1990年代初頭にかけて前述の連続幼女誘拐殺人事件によるオタクバッシングの余波が続き、神戸連続児童殺傷事件以降の少年犯罪報道の激化などいくつかの動きと重なってアニメの性的表現、残虐・暴力描写の自主規制が行われる時代であった[35]。またキレる17歳論やゲーム脳論などにも晒された。
1980年代から盛んに行われた小説、漫画、アニメ、ゲームなどの複数のメディアを通じて展開する“メディアミックス”が主流となり、ヒット作が複数のメディアに派生し、一つのメディアだけにとどまることが少なくなった。
新世紀エヴァンゲリオン』(1995年)や「PlayStation」(1994年)の大ヒットで、アニメやコンピュータゲームが趣味の一つとして市民権を得るようになり、メインカルチャーサブカルチャーの差が薄れ始めた世代といえる。
Windows 95」の日本語版発売もこの時期で、インターネットが個人にも普及し始めた世代でもある。
ゲームでは『ストリートファイター2』(1991年)などの格闘ゲームや、『ときめきメモリアル』(1994年)などの恋愛シミュレーションゲームが多数ヒットするようになり、ゲームのキャラクターがアニメや漫画のキャラクターと同等の人気を博すようになった時代である。

オタク第四世代(1990年前後生まれ)

ブロードバンドが普及し、家庭でのインターネット利用が一般的な環境の中に育った。「Windows XP」(2001年)世代でもある。
この世代はゆとり世代論により年少期からバッシングに晒され、また地上波テレビ等で自主規制が強まった後に育っている。
一方で、インターネットにより「2ちゃんねる」(1999年)、2000年代前半から中盤のFlash動画黄金期、深夜アニメの隆盛、「YouTube」(2005年)や「ニコニコ動画」(2006年)などの動画投稿サイトの台頭、実況プレイなどのネット動画ブーム、『初音ミク』(2007)等のVOCALOIDブーム、「ハルヒダンス」などの「踊ってみた」ブーム等、ネット発の様々な流行を体験した。
2005年には、おたくを肯定的に描いた、2ちゃんねる発の恋愛作品『電車男』が映画化・ドラマ化され共に大ヒットしたことや、同年の流行語大賞に「萌え」及び「メイドカフェ」がノミネートされるなど、一般社会へオタク文化が急速に浸透し、10代でオタク趣味に傾倒する人が増えた。学校でアニメやゲームが話題に上がることも多く、宮崎事件の後に産まれていることもあって、オタク趣味やオタク文化に対するや後ろめたさがほとんどないことが特徴で、オタクの低年齢化が一気に進んだ。このため、かつてのトレンディドラマJ-POP洋画スポーツ等といった、一般的な大衆文化メインカルチャー)やアウトドア等と並んでオタク文化もごく普通に消費されるようになり、オタク文化が大衆文化やメインカルチャーに内包されるようになった最初の世代であるといえる。

おたくを題材とした作品

脚注

出典

  1. ^ 大塚英志「特集・真説おたくの精神史──解題」『comic新現実』第4巻、角川書店、2005年4月、76-77頁。
  2. ^ 飯間浩明. “「おたく」分け入っても分け入っても日本語”. 新潮社. 2022年11月23日閲覧。
  3. ^ 小林信彦『日本人は笑わない』新潮文庫、1994年、pp.45-46
  4. ^ 「オタク」と司法 内田樹の研究室
  5. ^ a b 岡田斗司夫 (1996). “オタクの正体”. オタク学入門. 太田出版. ISBN 4-87233-279-2. オリジナルの2000-12-16時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20001216171500/http://www.netcity.or.jp/OTAKU/okada/library/books/otakugaku/No1.html 
  6. ^ おたく/ オタク/ Otaku同人用語の基礎知識
  7. ^ 遠藤諭 (2013年5月16日). “おたく30周年、発祥の地をご案内しましょう”. 週刊アスキー. 角川アスキー総合研究所. 2020年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年6月25日閲覧。 “「いまから30年前、私は、『東京おとなクラブ』という雑誌を作っていて、本の町こと神田神保町のはずれにあるビルのワンルームの部屋を借りていた。/当時は、『宝島』や『ポパイ』の元気があったし、『本の雑誌』や『広告批評』なんかも頑張っていた時代である。源喜堂でまとめ買いした『WET英語版』や『Whole Earth Catalog』(スティーブ・ジョブズスタンフォードでの講演の“Stay hungry,stay foolish”はこれからの引用なのですよ)を見ると、米国でも好きなように雑誌を作っている。新宿紀伊國屋書店や神保町の書泉ブックマートなど、全国の30くらいの書店が置いてくれた。そこで、もう少し真面目にやろうかなと思って、オフィスを借りたのだった。/ここの家賃を稼ぎだすために商業誌や自販機本のページ編集なんかをやることになった。その頃、ここによくいた数人の間でだけ使われていたのが『おたく』という言葉だった。それを、“東京おとなクラブ Jr.”という連載をやらせてもらっていた『漫画ブリッコ』に、中森明夫が“おたくの研究”というのを書いたのだ。/クラスターとしてのおたくというのは、この部屋から広がったんだよ」”
  8. ^ 『おたく』の研究 第1回漫画ブリッコの世界(再録サイト)
  9. ^ 『おたく』の研究 第2回 漫画ブリッコの世界(再録サイト)
  10. ^ 『おたく』の研究への反応と反論 新宿マイナークラブ1983年9月号 漫画ブリッコの世界(再録サイト)
  11. ^ 小形克宏「山田さんが声をかけてくれなかったら、今日の僕はなかった」『川本耕次に花束を』迷路'23、2023年、16-30頁。
  12. ^ 『おたく』の研究 「妥協の森」1984年6月号 漫画ブリッコの世界(再録サイト)
  13. ^ オタク・イズ・デッド 岡田斗司夫クロニクル2006/5/24 - YouTube
  14. ^ 森川嘉一郎 2003, p. 181-182.
  15. ^ a b 菊池聡、金田茂裕、守一雄「FUMIEテストを用いた「おたく」に対する潜在的態度調査」『人文科学論集人間情報学科編』第41号、信州大学人文学部、2007年4月、105-115頁、ISSN 1342-2782NAID 110006389058 
  16. ^ “オタク史に咲いた、宅八郎というあだ花 ノンフィクション作家・大泉実成さんと振り返る”. 好書好日(朝日新聞). (2021年1月16日). https://book.asahi.com/article/14105708 2021年11月22日閲覧。 
  17. ^ 岡田斗司夫 2008, p. 64.
  18. ^ 1996年2月25日 日本経済新聞『メディアあんぐる』「誇りうる文化で画一化に風穴を」
  19. ^ Mammo.tv >> 今週のインタビュー(2002.05.27-06.03号 Part1) 東 浩紀 さん
  20. ^ a b 京都精華大学〈サブカルチャー論〉講義録 第18回「世界の終わり」という想像力の敗北――東日本大震災と『Show must go on』(PLANETSアーカイブス) | PLANETS/第二次惑星開発委員会
  21. ^ 「オタクの力を上手に使え」,野村総研が研究発表 | 日経クロステック(xTECH)
  22. ^ 「アニメソングをチャート1位に」 ネット運動勃発 - ITmedia NEWS
  23. ^ ガルバレス・パトリック・ウィリアム「公の「オタク」のイメージを左右する秋葉原」2009年1月、 オリジナルの2009年10月8日時点におけるアーカイブ。 
  24. ^ asahi.com(朝日新聞社):アニメバブル崩壊 DVD不振、新番組も減 - マンガ+ - 映画・音楽・芸能
  25. ^ Wen Wei Po New Media Center (2008年9月23日). “「御宅族」行「漫畫外交」受年輕人追捧 - 香港文匯報”. 2022年10月22日閲覧。
  26. ^ 著者からのコメント(空白修正)
  27. ^ “「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由(稲田 豊史)”. 現代ビジネス. (2021年6月7日). https://gendai.media/articles/-/83898?page=4 2021年10月23日閲覧。 
  28. ^ “「オタク」になりたい若者たち。倍速でも映画やドラマの「本数をこなす」理由(稲田 豊史)”. 現代ビジネス. (2021年6月7日). https://gendai.media/articles/-/83898?page=5 2021年10月23日閲覧。 
  29. ^ “若者の間に「エセオタク」が激増しているワケ”. 東洋経済オンライン. (2015年12月2日). https://toyokeizai.net/articles/-/92036 2021年10月23日閲覧。 
  30. ^ 「私の戦闘力は53万です」 表現規制反対派・山田太郎氏が当選 SNSフル活用、“オタク層”の支持集める - ITmedia NEWS
  31. ^ “マンガ、アニメ、コミケ…“オタク”集票力は宗教以上 漫画家の自民議員「もはや無視できない政治勢力」〈dot.〉”. AERA. (2022年8月14日). https://dot.asahi.com/articles/-/14948?page=1 2022年8月14日閲覧。 
  32. ^ “ドラマよりもアニメ” 若者のテレビの好みが変わった!~若者のテレビ番組の好み 過去と現在を比較して~ - 『R&D若者ハンドブック2017』より(第2弾リリース)-
  33. ^ “オタク4世代論 アキバ王が語るオタクの“ライト化””. ITmedia NEWS. (2008年3月19日). https://www.itmedia.co.jp/news/articles/0803/19/news027.html 2021年10月21日閲覧。 
  34. ^ 東浩紀 2001, p. 13.
  35. ^ 榎本秋 2009, p. 58.

参考文献

  • 東浩紀『動物化するポストモダン オタクから見た日本社会』講談社〈講談社現代新書〉、2001年11月20日。ISBN 978-4061495753 
  • 森川嘉一郎『趣都の誕生-萌える都市アキハバラ-』幻冬舎、2003年。ISBN 9784344002876 
  • 岡田斗司夫『オタクはすでに死んでいる』新潮社〈新潮新書, 258〉、2008年。ISBN 9784106102585 
  • 榎本秋『オタクのことが面白いほどわかる本 日本の消費をけん引する人々』中経出版、2009年。ISBN 9784806133582 
  • 別冊宝島編集部編『おたくの本』宝島社〈別冊宝島104号〉、1989年12月
    • 別冊宝島編集部編『「おたく」の誕生!!』宝島社〈宝島社文庫〉、2000年3月

関連項目