ドミニク・ストロス=カーン
ドミニク・ストロス・カーン(ストロスカーン、Dominique Strauss-Kahn、1949年4月25日 - )は、フランスの経済学者、法律家、政治家。フランス社会党所属。しばしば頭文字をとって、DSKと呼ばれる。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8e/Dominique_Strauss-Kahn_-_Strauss-Kahn_meeting_in_Toulouse_for_the_2007_French_presidential_election_0032_2007-04-13_cropped.jpg/200px-Dominique_Strauss-Kahn_-_Strauss-Kahn_meeting_in_Toulouse_for_the_2007_French_presidential_election_0032_2007-04-13_cropped.jpg)
1997年から1999年まで経済・財政・産業大臣(大蔵大臣、財務大臣に相当)。パリ政治学院及び高等商業学校教授。
2007年フランス大統領選挙では、社会党の大統領選挙候補者に立候補したが、最終的に2006年11月党大会でセゴレーヌ・ロワイヤルが公認候補者となった。
生い立ちと初期の経歴
1949年4月25日パリ、ヌイイ・シュル・セーヌ Neuilly-sur-Seineのユダヤ人家庭に生まれる。幼年時、モロッコとモナコで過ごした。
長じて経済学と政治学をパリ政治学院で、経営学を高等商業学校でそれぞれ学んだ。さらに公法で博士号Ph.D.を、経済学でアグレガシオンの学位を取得した。
1977年ナンシー第二大学経済学部教授、1981年ナンテール大学及びフランス国立行政学院(ENA)教授に就任。2007年現在パリ政治学院でミクロ経済学とマクロ経済学を教えている。
1971年貯蓄調査センター Centre de recherche sur l'épargneに勤務する。ここで後にフランス大手のIT企業、キャップジェミニ Capgemini社社長となるポール・エルメラン Paul Hermelinや、後に革命的共産主義者同盟の党員で保険大手スコールの社長となったデニス・ケスラー(ドニ・ケスラー)とともに働く。1982年にケスラーはナンテール大学助手となり、『貯蓄と退職』 L’épargne et la retraite のタイトルで論文を共同執筆した。
政界入り
ストラス・カーンは、社会主義教育研究センター Centre d'Etudes, de Recherches et d'Education Socialiste に所属し、ここで後に国防相、内相を歴任する社会党の大物ジャン・ピエール・シュヴェーヌマンに師事するとともに、後に首相、社会党第一書記となるリオネル・ジョスパンとの親交を得た。
1981年フランス大統領選挙で社会党のフランソワ・ミッテランが当選する。ストロス・カーンは、ジョスパンが設立した社会党機関「社会主義とユダヤ主義」で勤務するため、公職を離れ、社会党企画担当委員となる。1986年オート=サヴォワ県から下院国民議会選挙に立候補し初当選する。1988年ヴァル=ドワーズ県から選出される。財務委員長になり、同じく社会党出身のピエール・ベレゴボワ蔵相(後、首相)とともに経済・財政専門家として知られるようになっていった。
産業界
1991年エディット・クレッソン内閣の産業担当次官に就任する。クレッソン内閣の後継となったベレゴボワ内閣でもいくつかのポストに就く。しかし1993年社会党は総選挙で敗北した。選挙後、クロード・アレグール Claude Allègreらと社会党専門家グループ groupe des experts du PSを結成した。このグループは、ミシェル・ロカール派と近い関係にあり、ロカールを支援した。1994年ルノー社取締役のレイモン・レヴィ Raymond Lévyによって欧州連合に対するフランス産業界ロビー団体である産業サークル Cercle de l’Industrieに誘われる。産業サークルでヴァンサン・ボロレ、ルイ・シュヴァイツァーなどの有力実業家と知己となった。ストロス・カーンは産業サークルで事務総長、副会長を務めた。1993年法律事務所「DSK顧問」を設立して、企業弁護士としても活動した。1995年TF1の記者であったアンヌ・シンクレアと結婚。
蔵相
1997年国民議会総選挙で社会党が勝利し、リオネル・ジョスパン内閣が成立すると、経済・財政・産業大臣として入閣する。蔵相としては、大規模な民営化を実施し、その中にはフランス・テレコムの株式公開も含まれる。そのほか、種々の規制緩和や研究、開発分野への投資を促した。ストロス・カーンの努力もあり、フランス経済はストロス・カーンの在任中、GDPの増加と、失業率、公的債務の減少が見られた。このことは、ストロス・カーンの政治家としての信頼度を増すこととなり、同時に党内実力者であるジョスパンやロカールの一層の支持を得ることにも繋がった。ストロス・カーンはこの時期、党内改革派のグループ「社会主義と民主主義」Socialisme et Démocratieを結成している。しかし、ジョスパン首相とマルティーヌ・オブリ(マルティーヌ・オーブリ)社会相が打ち出した週35時間労働時間制(4時間の削減)に対しては、産業界の意向もあり反対していたが、ジョスパン首相の意向もあり実現した。
1999年エルフアキテーヌ社とMNEF(学生健康保険)に関係した2つの金融スキャンダルで渦中の人となり、蔵相を辞任した。後に裁判で無罪となり、2001年国民議会議員に返り咲きを果たした。2002年国民議会総選挙でも当選。2004年末、2007年フランス大統領選挙に向けて、ジャック・ラング、マルティーヌ・オブリとともに社会党政策プログラム作成の責任者となる。2005年夏、大統領選挙候補者を選出する党内予備選挙に立候補を表明した。党大会ではセゴレーヌ・ロワイヤル、ローラン・ファビウス元首相が立候補し、ストロス・カーンは2位となり、ロワイヤルに敗れた。
ストロス・カーンはロカール、ピエール・モスコヴィッチ Pierre Moscoviciと「ヨーロッパを左に」 À gauche en Europe というシンクタンクを設立した。また、前述の「社会主義と民主主義」グループ会長でもある。
著書
- La flamme et la cendre, Grasset, 2002年 (ISBN 2-01-279122-0)
- Lettre ouverte aux enfants d’Europe, Grasset, 2004年 (ISBN 2-246-68251-7)
外部リンク
- DSK's blog
- Engagement of DSK for the YES, in the European Treaty
- Socialisme et Démocratie website
- official campaign site for the 2007 presidential elections