ソンムの戦い

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ソンムの戦い(ソンムのたたかい、Battle of the Somme)は、第一次世界大戦における最大の会戦1916年7月1日から同11月19日まで、フランス北部、ピカルディ地方を流れるソンム河畔の戦線において展開された。第一次世界大戦における西部戦線の塹壕戦の膠着を打開しようとしたもので、連合国側のイギリス軍・フランス軍が、同盟国側のドイツ軍に対する大攻勢として開始される。

ソンムの戦い

ソンム県Ovillers-la-Boisselle近郊のイギリス軍の塹壕。作戦計画図中央にある道路付近の塹壕の写真。
戦争第一次世界大戦
年月日1916年7月1日 - 11月18日
場所フランスピカルディ地方のソンム
結果:膠着
交戦勢力
大英帝国カナダインドニューファンドランド南アフリカニュージーランドオーストリア
フランス
ドイツ帝国
指導者・指揮官
ヘイグ
フェルディナン・フォッシュ
ガルウィッツ
ビューロー
戦力
初期 英:13師団 仏:6師団
最終 51師団
初期 10.5師団
最終 50師団
損害
英:419,654 仏:204,253 計:623,907(内死者不明者 146,431)
大破 戦車:100 飛行機:782
465,000 - 600,000(内死者不明者 164,055)

ドイツ軍塹壕への事前攻撃の効果が少なかったこと、攻撃中の部隊との通信連絡が完全に途絶したことに加え、ドイツ軍の防衛陣地が多重防御を備えた強固なものであったため、7月1日の攻撃は失敗に終わる。イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を被り、戦闘1日の被害としては大戦中でもっとも多い。

当時、新兵器であった戦車が投入された戦いとして知られる。

経過

 
イギリス軍の作戦計画(1916年7月1日時点)。初日に連合国の塹壕(赤)全面から攻撃を加え、ドイツ軍の塹壕(青)を突破し、ドイツ軍の第二防衛線となっている塹壕(青い点線)まで進むというものだったが、突破に失敗し、7万人以上(攻撃に参加した歩兵の91%)を失った

1914年7月に開始された第一次大戦において、西部戦線マルヌの戦い以後に膠着。連合国側では1915年12月にシャンティリュー会議において英仏軍で連携した共同作戦が提示され、ソンム一帯を予定攻勢地域に選定する。ソンム一帯を予定戦域とすることは両軍の接点であるという理由で決められ、同地がドイツ軍の強固な防御地点であることから反対意見もあった。また、攻勢は東部戦線におけるロシア、イタリア軍の攻勢と合わせて行われることとなり、その間の予備攻撃を主張するフランス軍参謀本部(GQG)総長ヨセフ・ジョフルとイギリス海外派遣軍(BKF)最高司令官のダグラス・ヘイグ(15年12月就任)との間で意見対立も生じた。

1916年2月、ドイツ軍がヴェルダン要塞進攻を開始(ヴェルダンの戦い)。ドイツ軍の消耗戦術でフランス軍が苦戦したため、ソンムに投入する兵力は減少する。攻撃開始は6月29日に予定されていたが、天候の影響で7月1日に延期。

11月に終わるこの戦闘でイギリス軍40万、フランス軍20万、ドイツ軍40-50万という膨大な損害を受けたが、いずれの側にも決定的な成果がなく、連合軍が11km余り前進するにとどまった。大戦初期のマルヌの戦いなどに比して武器の消費量や性能も飛躍的に発展した。イギリス軍による戦車の使用はこの戦いにはじまった。

イギリスの軍需大臣ロイド・ジョージは戦車の投入に否定的であったが、9月15日の攻撃で、第15軍に投入されたMk.I戦車がフレール方面で使用された。秘密兵器の初披露であった衝撃もあり、ドイツ軍の戦線攻略に効果があったが、投入できる数は少なく、運用面でも不備があり機動性は発揮できなかった。

関連項目

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