ハビエル・サネッティ
ハビエル・サネッティ(Javier Zanetti、1973年8月10日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス出身の同国代表プロサッカー選手。ポジションはDFおよびMF。
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名前 | ||||||
本名 | ハビエル・アデマール・サネッティ | |||||
愛称 | トラクター、カピターノ | |||||
カタカナ | ハビエル・サネッティ | |||||
ラテン文字 | Javier Adelmar Zanetti | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1973年8月10日 | |||||
出身地 | ブエノスアイレス | |||||
身長 | 178cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | インテル | |||||
ポジション | MF/DF(右SB) | |||||
背番号 | 4 | |||||
利き足 | 右 | |||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
愛称はPUPI、イル・トラットーレ(トラクターのようなドリブルをみせることから)。インテル・ミラノでは外国人ながらバンディエラ的な存在としてカピターノ(キャプテン)と呼ばれる。
プレイスタイル
右サイドならどこでもプレーでき、チーム状況によってはサイドバック、サイドハーフからウイング気味のプレイ、さらにセンターハーフまでこなすオールラウンドな鉄人。最近ではセントラルな位置でもプレーしている。サイドの選手ではあるが、サイドからクロスを上げるよりも、中に切れ込んでいくドリブルを得意としている。ドリブルで2~3人抜くことはざらにある。 派手さはないが、堅実で献身的にチームプレーをこなせる選手であり、かつ、闘志溢れるプレーも持ち味の選手。クラブでも代表でもファンに愛される選手である。また、怪我も少なく、監督からすればとても使い勝手のいい選手でもある。
経歴
概要
兄セルヒオの影響でフットボールを始め、13歳の時にインデペンディエンテの下部組織に入ったが、実力不足の評価を受け退団。レンガ積み職人である父親の仕事を手伝いながら練習を続け、18歳になった1992年からタジェレスでプレイを再開。ここでの活躍が評価され、1993年CAバンフィールドにスカウトされる。1994年インテルの新会長にマッシモ・モラッティが就任すると、彼が一番最初に獲得した選手がこのサネッティだった。
以後インテルで長くプレーしており、アルゼンチン代表としても長く活躍している。キャプテンシーに溢れ、その闘志溢れるプレーはファンにこよなく愛されている。
2006年FIFAワールドカップでの活躍も期待されていたが、同僚のワルテル・サムエルと共に惜しくも落選した。故障も少なく常に試合に出場できる安定感抜群の選手である。インテル在籍は10年を越え、欧州カップ戦100試合出場、セリエA出場500試合という記録を残している。
クラブでの活躍
1993年
1994年
1995年
- インテルに移籍。シューズケース1つだけを持ってイタリア・ミラノへ。
- インテルでの公式デビューは8月27日のヴィチェンツァ戦。それ以来インテルで500試合以上の公式戦に出場することになる。
1998年
1999年
- ジュゼッペ・ベルゴミの引退にともなって、以来インテルのキャプテンとして定着する。
2004年
2005年
- コッパ・イタリア獲得。
- 8月28日の対トレヴィーゾ戦で右足の筋肉を断裂、3ヶ月の欠場を強いられる。
- イタリア・スーパーカップ獲得。
2006年
- コッパ・イタリア獲得。
- セリエA優勝(2005-2006シーズン。セリエAのカルチョ・スキャンダルによりインテルが昇格1位になる。)。
- イタリア・スーパーカップ獲得。
2007年
- セリエA優勝(2006-2007シーズン)。
- このシーズンにおいては、チーム事情により本職のサイドバックではなく、サイドハーフにコンバートされたが見事に適応し、シーズン通してスタメン出場し続けた。
アルゼンチン代表
1994年のアメリカW杯に敗退した直後のアルゼンチン代表は、右サイドバックの人材を求めていた。その時ダニエル・パサレラ監督の目に止まったのがサネッティである。代表デビューは11月16日の対チリ戦。当時サネッティは全く無名といって良い存在だったが、以降サネッティは代表メンバーにおいて不動の存在へと成長する。
1996年アトランタ五輪ではアルゼンチンの準優勝に大きく貢献。
1998年フランスW杯に代表選出。イングランド戦では相手の裏をかくセットプレーから左足で豪快かつ見事な得点も決めベスト8進出の原動力となった。
2002年日韓W杯に選出されるも、アルゼンチンは予選グループリーグ敗退。
2006年ドイツW杯に向けた予選では12試合に出場。しかしまさかのW杯本戦の代表落選。代表監督のホセ・ペケルマンはワールドユースでの実績があり、世代交代を進めていた。旧世代の象徴的存在であるサネッティを外す事で年齢的派閥を失くすことが目的だったのではないかとされている。サネッティには代表発表前に監督から連絡はあったものの「リストに加わることができるよう全力を尽くしてきたし、召集には常に応じてきた。戦術上の問題なのか何なのか、代表に選ばれなかった理由はわからない」と述べている。
2007年2月7日の対フランス戦で代表復帰を果たす。
2007年10月17日の対ベネズエラ戦に出場し、アルゼンチン代表キャップ数歴代1位の115試合を達成。
備考
- ポーランドのある検事がアルゼンチン対イングランドをテレビ観戦していた。試合はサネッティのゴールで延長戦に突入し、検事は毎日定刻どおり行っていた出勤時間をずらすことになった。そして時計の針が10時を回った時、自宅外に止めてあった車が爆発。検事のスケジュールを調べていたマフィアが仕掛けた爆弾だった。後日、この検事とサネッティは感謝の手紙のやり取りを行っている。
- 私生活ではチームメイトと深く付き合わないことにしているが、元チームメイトのロベルト・バッジョとは親友の間柄である。
- 2006年9月インテル会長であり現役時代グランデ・インテルの偉大なキャプテンでもあったジャチント・ファッケッティが死去。直後のセリエA開幕戦にサネッティはキャプテンマークに「貴方は人としてあるべき姿だった。いなくなって寂しいよ...さようなら ジャチント」と刺繍して出場した。
- アルゼンチンとラテンアメリカのストリートチルドレンを助ける為にサネッティが設立した慈善団体PUPI財団がある[1]。
タイトル
- セリエA優勝2回(2005-2006、2006-2007)
- コッパ・イタリア3回(2005、2006)
- イタリア・スーパーカップ2回(2006、2007)
- UEFAカップ1回(1998)