アンドレイ・グロムイコ

ソビエト連邦の政治家。同国第7代外務大臣

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アンドレイ・アンドレーエヴィチ・グロムイコАндре́й Андре́евич Громы́ко, Andrei Andreevich Gromyko, 1909年7月18日(ユリウス暦7月6日) - 1989年7月2日)はソビエト連邦外交官政治家。28年の長きにわたりソ連外務大臣を務め、「ミスター・ニエット」の異名で知られた。ゴルバチョフ時代にシェワルナゼと外相を交代し、国家元首に当たる最高会議幹部会議長に就任した。

アンドレイ・グロムイコ

プロフィール

1909年7月6日ソビエト連邦白ロシア(現在のベラルーシ)共和国ゴメリ州の農家に生まれる。

1931年ソ連共産党に入党。1932年ミンスク農業大学を卒業。ソ連科学アカデミー経済研究所勤務を経て、1939年にソ連外務人民委員部(外務省)に入る。米州諸国局課長、アメリカ局次長、同局長、駐米大使館参事官を歴任する。第二次世界大戦中の1943年駐米大使に抜擢され大戦中、1944年ダンバートン=オークス会議1945年ヤルタ会談など主要な国際会議に出席し、特にアメリカとソ連の関係強化に動いた。

ファイル:Gromyko UN Chapter.jpg
国際連合憲章に調印するグロムイコ

1946年から1949年まで国連安全保障理事会ソ連代表を務め、この間何度も拒否権を行使したことから、「ミスター・ニェット。(ニェットнетは、ロシア語のノーにあたる)」の異名を奉られた。1951年サンフランシスコ会議でもソ連代表として出席したが、講和条約の内容に反対して署名しなかった。

その後、外務次官、駐英大使などを歴任。駐英大使時代には、日ソ共同宣言に先立つロンドン交渉でソ連側代表。

1955年外務次官を経て、フルシチョフ時代の1957年に外務大臣に就任した。以後、1985年にシェワルナゼと交代するまで28年間にわたり、冷戦時代のソ連外交を担う。ブレジネフ時代の1960年代後半から1970年代にかけての、デタント(緊張緩和)を実現するが、1979年アフガニスタン侵攻によって新冷戦を招いた。

この間、1956年党中央委員。1973年4月党政治局員となる。元来ソ連外務省は、他のソ連の国家機関同様、ソ連共産党の国際部や社会主義連絡部などの指導を受けて、外交を実施する機関であったが、1970年代からソ連閣僚会議が膨大な官僚を擁して行政府として強大化していったことと軌を一にしたこと、及びグロムイコの外相在職が長期化したことに連れて、その権威も増大していった。

ブレジネフ政権末期からグロムイコは、政治的権威を増し、1983年からは第一副首相を兼任した。その後のユーリ・アンドロポフ政権を経て1985年3月チェルネンコ書記長の死を受けて、後継書記長の選出に当たっては、ゴルバチョフを強く推し、キング・メーカーとして、存在感を見せつけた。推薦演説に当たっては、ゴルバチョフを評して曰く「この人物は若いが、鉄の歯を持っている」と評した。

しかし、皮肉にもゴルバチョフの鉄の歯はグロムイコ自身にも向かい、7月に外相のポストをシェワルナゼに譲り、最高会議幹部会議長に祭り上げられた。これはゴルバチョフが外交の主導権を掌握し、新思考外交を進める上で老齢のグロムイコが障害となったためである。1988年秋,政治局員から引退。1989年4月中央委員会から引退。1989年7月2日死去。79歳。

著書

著書に『回想録』(1989年、邦題は『グロムイコ回想録・ソ連外交秘史』)がある。エリツィンの著書『告白』には、最高会議幹部会議長時代のグロムイコの様子が描かれており、エリツィンに対しては好意的な姿勢を見せていた。

関連項目


先代
ドミトリー・シェピーロフ
ソ連外務大臣
1957年 - 1985年
次代
エドゥアルド・シェワルナゼ
先代
コンスタンティン・チェルネンコ
ソ連最高会議幹部会議長
1985年 - 1988年
次代
ミハイル・ゴルバチョフ