ソンムの戦い

これはこのページの過去の版です。江口磐世☆ (会話 | 投稿記録) による 2008年9月26日 (金) 14:02個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎概要: lk)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

ソンムの戦い(ソンムのたたかい、Battle of the Somme)とは第一次世界大戦における最大の会戦である。大戦初期のマルヌの戦いなどに比して武器の消費量や性能も飛躍的に発展し、軽機関銃も初登場した。また当時、新兵器であった戦車が投入された戦いとしても知られている。

ソンムの戦い

ソンム県Ovillers-la-Boisselle近郊のイギリス軍の塹壕。作戦計画図中央にある道路付近の塹壕の写真。
戦争第一次世界大戦
年月日1916年7月1日 - 11月18日
場所フランスピカルディ地方のソンム
結果:膠着
交戦勢力
大英帝国カナダインドニューファンドランド南アフリカニュージーランドオーストラリア
フランス
ドイツ帝国
指導者・指揮官
ヘイグ
フェルディナン・フォッシュ
ガルウィッツ
ビューロー
戦力
初期 英:13師団 仏:6師団
最終 51師団
初期 10.5師団
最終 50師団
損害
英:419,654 仏:204,253 計:623,907(内死者不明者 146,431)
大破 戦車:100 飛行機:782
465,000 - 600,000(内死者不明者 164,055)

概要

1916年7月1日から同11月19日までフランス北部・ピカルディ地方を流れるソンム河畔の戦線において展開された。第一次世界大戦における西部戦線の塹壕戦の膠着を打開しようとしたもので、連合国側のイギリス軍・フランス軍が同盟国側のドイツ軍に対する大攻勢として開始される。

ドイツ軍塹壕への事前攻撃の効果が少なかったこと、攻撃中の部隊との通信連絡が完全に途絶したことに加え、ドイツ軍の防衛陣地が多重防御を備えた強固なものであったため、7月1日の攻撃は失敗に終わる。イギリス軍は戦死19,240人、戦傷57,470人ほかの損失を被り、戦闘1日の被害としては大戦中でもっとも多い。両軍合わせて100万人以上の損害を出したが、連合国軍はわずかな土地しか獲得できなかった。

背景

 
イギリス軍の作戦計画(1916年7月1日時点)。初日に連合国の塹壕(赤)全面から攻撃を加え、ドイツ軍の塹壕(青)を突破し、ドイツ軍の第二防衛線となっている塹壕(青い点線)まで進むというものだったが突破に失敗し、7万人以上(攻撃に参加した歩兵の91%)を失った

1914年7月に開始された第一次世界大戦において、西部戦線はマルヌの戦い以後に膠着。連合国側では1915年12月にシャンティリュー会議において英仏軍で連携した共同作戦が提示され、ソンム一帯を予定攻勢地域に選定する。ソンム一帯を予定戦域とすることは両軍の接点であるという理由で決められ、同地がドイツ軍の強固な防御地点であることから反対意見もあった。また、攻勢は東部戦線におけるロシア、イタリア軍の攻勢と合わせて行われることとなり、その間の予備攻撃を主張するフランス軍参謀本部(GQG)総長ジョゼフ・ジョフルとイギリス海外派遣軍(BKF)最高司令官のダグラス・ヘイグ(15年12月就任)との間で意見対立も生じた。

1916年2月、ドイツ軍がヴェルダン要塞進攻を開始(ヴェルダンの戦い)。ドイツ軍の消耗戦術でフランス軍が苦戦したため、ソンムに投入する兵力は減少する。攻撃開始は6月29日に予定されていたが、天候の影響で7月1日に延期された。

直前の両軍

連合国軍の主力はローリンソン将軍の英第4軍である。当初約25師団を予定していたが縮小され、19個師団[1]を有していた。そのうち11個師団が第1線を担当し、5個師団が直接の予備、わずか2個師団と騎兵1個師団が総予備として配備された。 南翼を担当するのファヨール将軍の仏第6軍で、ヴェルダン戦の影響で当初の約40個師団から16個師団に減していた。7月1日の攻撃には5個師団のみが参加した。

一方防者はフォン・ベロー将軍の独第2軍で、ソンム河北方の諸陣地に1個軍団(5個師団))、南方に1個軍団(4個師団)を有し、後方に3個師団の予備隊を控置していた。また、ドイツ軍防御陣地は以下の通りである。第1陣地は3~5線の塹壕線からなり、第2陣地は2~3線よりなる。第2陣地は最前線より3~5kmにあって、第3陣地はフレル付近に設置。また、第1陣地と第2陣地との中間には中間陣地があり、砲兵の主力はこの中間陣地付近に、重砲は第2陣地の後方にあった。当時ドイツ軍は第1陣地に重きを置いていて、第2、第3陣地はそれほど強固ではなかった。

経過

連合軍は周到な準備の下、6月5日より砲撃を開始してドイツ砲兵を圧倒した。と同時にまず第1陣地を破壊し、さらに第2陣地を砲撃したがこれは30日に至るまで6日間続けられた。飛行機もまた砲兵に協力してドイツ軍陣地の後方を擾乱した。

7月1日早朝、英仏両軍の歩兵は砲火と連携しつつ攻撃前進に移り、フランス軍は同日夕方までに独第1陣地の最前線を奪取した。ドイツ軍の逆襲を撃退してさらに攻撃を続け、5日までにペロンヌ西側地区において第1陣地だけでなく第2陣地の一部も占領するにいたる。イギリス軍の正面ではドイツ軍の激しい逆襲によってあまり前進出来ず、ただフランス軍との隣接地区においてのみ相当の進展を見た。 ドイツ軍はこの間各方面から増援を得て逆襲を繰り返して抗戦を試み、その兵力は2倍、16師団に増加した。連合軍はその後攻撃を続行して7月20日までに仏軍は正面約12km、深さ2ないし8kmの敵陣地を獲得し、英軍では第1陣地地帯を突破した。

7月下旬から9月中旬にわたる間英仏軍は攻撃を続行し、ソンム河北岸の地区では攻撃進展著しく、イギリス軍は9月15日その右翼方面において初めて戦車を使用した。この間ドイツ軍では8月下旬、ファルケンハイン将軍がヴェルダン攻撃失敗により参謀総長の職を退き、ヒンデンブルク将軍がこれに変わった。

9月末にソンム地方は天候不良で地面が泥だらけとなって作戦困難となったが、英仏連合軍は攻撃を続けた。10月末までにはソンム河北岸地方で一定の成果をみたが7月以来3カ月にわたる攻撃で消耗激しく、またドイツ軍も他方面の作戦に忙殺され11月上旬には両軍対峙の形となった。

一連の戦闘でイギリス軍498,000人、フランス軍195,000人、ドイツ軍420,000人という膨大な損害を出した[2]が、いずれの側にも決定的な成果がなく、連合軍が11km余り前進するにとどまった。

戦車の初投入

イギリス軍による戦車の使用はこの戦いにはじまった。 イギリスの軍需大臣ロイド・ジョージは戦車の投入に否定的であったが、9月15日の攻撃で第15軍に投入されたMk.I戦車がフレール方面で使用された。秘密兵器の初披露であった衝撃もあり、ドイツ軍の戦線攻略に効果があったが、投入できる数は少なく、運用面でも不備があり機動性は発揮できなかった。

脚注

  1. ^ リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈上〉』p.404では18個師団と書かれてあるが、これでは数が合わない。
  2. ^ Elis,John & Cox,Michael. The WORLD WAR 1 DATABOOK(Aurum Press.1993/2001)p.272

参考文献

  • リデル・ハート、上村達雄(翻訳)『第一次世界大戦〈上〉』中央公論新社、1970=1976年翻訳/2000年、ISBN 978-4120030864
  • 『〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦<上>』学習研究社、2008年、ISBN 978-4056050233
  • 『〔戦略・戦術・兵器詳解〕図説 第一次世界大戦<下>』学習研究社、2008年、ISBN 978-4056050516
  • 森五六『世界大戦史講話』軍事学指針社、菊地屋書店、1928年
  • Elis,John & Cox,Michael. The WORLD WAR 1 DATABOOK(Aurum Press.1993/2001) ISBN 978-1854107664

関連項目