大内氏
日本の氏族。室町時代の有力大名として知られる
概略
百済の王族であった琳徳太子が祖と言われている。何時からかはよくわからないが、周防に土着して最初は多々良氏と名乗っていたらしい。平安時代には周防国の在庁官人で、南北朝時代に大内長弘が周防守護となり、大内弘世の頃に本拠地を山口(山口県)に移し、1363年に幕府に帰服する。室町時代には大内義弘が今川貞世(了俊)の九州制圧に従軍し、南朝との南北朝合一でも仲介を務め、1391年に山名氏の反乱である明徳の乱でも活躍した事により数ヶ国を領する守護大名なり、李氏朝鮮とも独自の貿易を行う。義弘は1399年に3代将軍足利義満の挑発で挙兵し、鎌倉公方の足利氏満と連絡した応永の乱で敗死すると衰退し、義弘の弟の大内弘茂に周防・長門の守護職が安堵された。
大内政弘は応仁の乱で西軍山名氏に属し、戦国時代に入ると周防をはじめ、長門・石見・安芸・備後・豊前・筑前を領し、さらには細川氏とも争って明との交易を独占、そして放浪将軍・足利義稙を擁して上洛も果たし、戦国大名として成長した。
1551年、重臣の陶晴賢の謀反に遭って大内義隆が自害すると、大内氏は急速に衰退する。その後、晴賢は大友氏から大内義長を擁して大内氏は形式的には存続したが、1557年、厳島合戦で陶晴賢が討たれた2年後に毛利元就の侵攻に遭って義長は自害し、大内氏は名実ともに滅亡してしまった。
その後の1569年、大内氏の生き残りである大内輝弘は大友宗麟の支援のもと、一時は勢力を回復したかに見えたが、毛利軍によって最後は滅ぼされている。
- 家紋
大内花菱