ペドロ1世 (ブラジル皇帝)

ブラジル帝国初代皇帝、ポルトガル及びアルガルヴェ王国王

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ペドロ1世Pedro I of Brazil, 1798年10月12日 - 1834年9月24日)はブラジル帝国初代皇帝(在位:1822年 - 1831年)であり、ポルトガル国王としてはペドロ4世(在位:1826年)と呼ばれる。

ペドロ1世(ブラジル)・ペドロ4世(ポルトガル)
ペドロ1世(ブラジル)・ペドロ4世(ポルトガル)

1798年10月12日ポルトガル摂政王ジョアンの第2子としてリスボンに生まれる。長子が早く亡くなったので実質的な王位継承者であった。1808年ナポレオン軍のリスボン侵攻を前に、祖母であるポルトガル女王マリア1世(在位1777年 - 1816年)や両親とともにブラジルリオ・デ・ジャネイロに逃れた。

ポルトガル宮廷のリオ滞在中、マリア1世が没して父ジョアン6世(在位:1816年 - 1826年)が即位し、ペドロは皇太子として1817年に、神聖ローマ皇帝フランツ2世の次女のオーストリア皇女マリア・レオポルディーネ・フォン・エスターライヒと結婚、長女マリアと長男ペドロを儲けた。彼は、粗野で横暴な人物で、ふだんは陽気だが、突然鞭を振り上げて暴れるような所もあったという。

1821年ポルトガル宮廷がリスボンに帰還すると、ペドロはブラジル摂政王として残留し、独立を望むブラジル生まれの人々に擁立されて翌年独立を宣言、皇帝ペドロ1世となった。ペドロ1世はリベラルな傾向が強く、1824年には立憲君主制の憲法を制定したが、アルゼンチンとの戦争に敗北を喫した後、インフレの昂進、ドミティラという愛人の専横を許し、ブラジル国民に絶大な人気のあった皇后のレオポルディーネに辛く当たった事などが原因で、人気は落ち目となった。実際にブラジルを独立に導いたのは、レオポルディーネである。ペドロはただ議会の決議を承認しただけだった。また、彼はレオポルディーネに暴力を振るう事もあり、彼女が29歳で亡くなったのは、彼の暴力が原因とも言われている。

一方、ポルトガル王ジョアン6世が没した後、ペドロ1世は自身の王位継承権を辞退し、その娘マリア2世(在位1826年 - 1853年)が正統なポルトガル王位継承者とされた。しかしマリア2世は幼少のため在ブラジルのままであり、ポルトガル本国ではペドロの弟ミゲルが王位を僭称(1828年-34年)し、極めて保守反動的な政治を行っていた。このため、ペドロ1世は1831年にブラジル皇帝位を退き、娘マリア2世の王位を主張してポルトガル本国に帰国、弟のミゲルとポルトガル内戦(1832年 - 1834年)を展開した。内戦の結果はリベラル派の勝利に終わり、ミゲルは亡命に追い込まれたが、間もなくペドロも1834年9月24日リスボンの宮殿で病死し、マリア2世が名実共にポルトガル女王となった。