レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン

ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国の王族、軍人

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レオポルト・フォン・ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン(Leopold von Hohenzollern-Sigmaringen, 1835年9月22日 - 1905年6月8日)は、ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯国の王族。ホーエンツォレルン侯(在位:1885年から1905年)。全名はレオポルト・シュテファン・カール・アントン・グスタフ・エドゥアルト・タッシロLeopold Stephan Karl Anton Gustav Eduard Tassilo)。ホーエンツォレルン=ジグマリンゲン侯カール・アントンの長男。彼がスペインの王位継承問題に際して国王に推挙されたことが、普仏戦争の原因となった。

ホーエンツォレルン侯レオポルト

レオポルトは1835年9月22日、カール・アントンとその妃であったバーデン大公カールの娘ヨゼフィーネの間に第一子としてクラウヒェンヴィースKrauchenwiesバーデン=ヴュルテンベルク州ジグマリンゲン郡)で生まれた。次弟のカールはカロル1世として初代ルーマニア王となった。

1868年、スペインではフアン・プリムによってクーデターが発生し、女王イサベル2世フランス亡命した(スペイン9月革命)。イサベル2世はパリで息子のアルフォンソへの譲位を表明するがプリムはこれを拒否し、スペイン王位を誰が継承するかが問題となった。プロイセンヴィルヘルム1世オットー・フォン・ビスマルクはレオポルトを推し、プリムもこれに同意して1870年にレオポルトへ即位を要請した。しかしフランス皇帝ナポレオン3世は東西をホーエンツォレルン家が治める国に挟まれることを嫌って強く反発、レオポルトは即位を辞退した(結局イタリアヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男がアマデオ1世として王位に即いた)。

フランス側はレオポルトの即位辞退には飽き足らず将来に亘ってもホーエンツォレルン家からスペイン王を出さないことの確約を求めたが、ヴィルヘルム1世はこの要求を拒否した。ビスマルクはこの経緯を意図的に改竄してプロイセンとフランスの敵対感情を煽り(エムス電報事件)、結果普仏戦争が勃発することとなる。

1905年6月8日にレオポルトはベルリンで歿し、長男のヴィルヘルムがホーエンツォレルン侯家の家長を継承した。

子女

レオポルトは1861年9月12日ポルトガル女王マリア2世の娘アントニアリスボンで結婚した。彼女との間には以下の三男をもうけた。

先代
カール・アントン
ホーエンツォレルン侯家家長
1885 - 1905
次代
ヴィルヘルム