カーティス・ギルド
カーティス・ギルド(Curtis Guild, 1860年2月2日 - 1915年4月6日)は、アメリカ合衆国の政治家。1906年から1909年まで第43代マサチューセッツ州知事を務めた。
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/99/Curtis_Guild_Jr.jpg/220px-Curtis_Guild_Jr.jpg)
生涯
青年期
カーティス・ギルドは、1860年2月2日にマサチューセッツ州ボストンにおいて、報道事業に従事する家庭に生まれた。同名の父親カーティス・ギルドは雑誌『Commercial Bulletin』を刊行し、芸術を愛し、ボストン市民協会の代表を務めていた[1]。
公職
ギルドはハーバード大学を卒業後、父親の新聞社に就職した[1]。その後、1881年にマサチューセッツ州下院議員に選出された[1]。
1891年、ギルドはマサチューセッツ州志願兵に参加し、1898年には准将に昇格した[1]。米西戦争の間、ギルドはキューバのハバナで検察官を務めた[1]。
州知事への就任
1903年、ギルドはジョン・ルイス・ベイツ知事の下でマサチューセッツ州副知事に就任し、続くウィリアム・ルイス・ダグラス知事の下でも州副知事を務めた。そして1905年、ギルドはマサチューセッツ州知事に選出され、1906年から1909年まで知事職を勤めた。
暗殺未遂
1907年、精神病院から逃亡した患者が短銃を携えてマサチューセッツ州会議事堂に逃げ込んだ。その患者は同州リンから訪問していた労働組合の代表エドワード・コーエンを発見すると、その人物が州知事ギルドであると誤認し、短銃を発砲した[1]。
晩年
知事退任後、ギルドは共和党の副大統領候補の1人として選出された。だが予備選挙においてギルドは敗退した。ギルドはその後1911年から1913年まで合衆国の駐ロシア特命全権大使を務めた[2]。
1915年4月6日、ギルドは死去した。ギルドの遺体は、マサチューセッツ州ボストンのフォレスト・ヒル墓地に埋葬された。
栄誉
東ボストンにあるカーティス・ギルド小学校は、州知事としてのギルドにちなんで名づけられたものである。
参考文献
- ^ a b c d e f Governors of Massachusetts - Curtis Guild, Jr. Retrieved April 18, 2006.
- ^ http://www.state.gov/r/pa/ho/po/com/11152.htm
公職 | ||
---|---|---|
先代 ジョン・ルイス・ベイツ |
マサチューセッツ州副知事 1903年1月8日 - 1906年1月4日 |
次代 エベニーザー・サムナー・ドレイパー |
先代 ウィリアム・ルイス・ダグラス |
マサチューセッツ州知事 1906年1月4日 - 1909年1月7日 |
次代 エベニーザー・サムナー・ドレイパー |
先代 ウィリアム・ウッドヴィル・ロックヒル |
在ロシアアメリカ合衆国特命全権大使 1911年8月17日 - 1913年4月24日 |
次代 ヘンリー・ピンデル |