小笠原長行

江戸時代後期の肥前国唐津藩の世嗣(藩主説あり)。従五位、従四位、壱岐守、図書頭。江戸幕府 奏者番、若年寄、老中格、老中、外国事務総裁。小笠原長昌の長男。

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小笠原 長行(おがさわら ながみち)は、江戸時代後期の譜代大名江戸幕府老中、外国事務総裁。肥前国唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。

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小笠原長行
時代 江戸時代後期 - 明治時代
生誕 文政5年5月11日1822年6月29日
死没 明治24年(1891年1月25日
改名 行若、敬七郎、長行
戒名 顕忠院殿深信長行日解大居士
墓所 幸龍寺東京都世田谷区
官位 従五位従四位壱岐守図書頭
幕府 江戸幕府奏者番若年寄老中
肥前国唐津藩世嗣
氏族 小笠原氏
父母 父:小笠原長昌、母:松倉氏
養父:小笠原長国
正室:小笠原長国の娘
長生

人物

唐津藩初代藩主・小笠原長昌の長男。正室は小笠原長国の娘。子は小笠原長生(長男)。号は明山。幼名は行若、後に敬七郎。義弟に小笠原胖之助がいる。

経歴

文政5年(1822年)5月11日、肥前国唐津藩主・小笠原長昌の長男として唐津城二の丸で生まれた。幼名は行若(後に敬七郎)。

文政6年(1823年)に父・長昌が死去。後継の藩主には信濃国松本藩主・戸田光庸の長男・小笠原長国など4人が養子に迎えられ、幼少の長行は庶子となる。

長行は幼少から明敏であったので、天保9年(1838年)に江戸に出、そこで朝川善庵に師事。安政4年(1857年)長国の養嗣子になり、藩政に携わり、その名声は高かった。図書頭と称する。文久2年(1862年)には世嗣の身分のまま、幕府奏者番から若年寄、そして間もなく老中となった。同年に生麦事件が起こったとき、事態を早急に終結させるために翌文久3年(1863年)5月、幕府に無断で賠償金をイギリスに支払った。ただ「無断」とされるが将軍後見職の一橋慶喜の黙認は得ていたといわれている。この事は尊皇攘夷派からの反発を呼び、第14代将軍徳川家茂に弁明しようとしたが、6月、大坂に滞在中に事が露見して老中職を罷免された。

元治元年(1864年)に謹慎を解かれ壱岐守となり、慶応元年(1865年)再び老中となり、外交事務総裁職を兼任する。慶応2年(1866年)の第2次長州征討に際しては、小倉口の総督として指揮をとったが、熊本藩はじめ諸藩を束ねることができず連敗を重ね、家茂の死の報を聞き戦線をひそかに離脱している。11月に一時老中を罷免。

戊辰戦争前後

第15代将軍・徳川慶喜にも仕え、明治元年(1868年大政奉還の後に戊辰戦争が起こると江戸において徹底抗戦を主張し、箱館まで転戦して新政府軍に抗戦した。箱館戦争に敗北した後は潜伏して行方不明。明治5年(1872年)4月に東京に戻り、7月に新政府に自首したが、8月4日に赦されている。その後は東京駒込動坂の小邸に隠棲し、明治9年(1876年)11月従五位に叙任され、明治13年(1880年)6月、従四位に叙任された。明治24年(1891年1月25日、駒込の自邸で死去した。

養父の小笠原長国から養子関係を絶縁されても、最後まで譜代の家臣として幕府に忠誠を誓ったことは評価されている。新政府に最後まで抵抗したためか、長行を唐津藩の藩主として認めていない史料もある。

墓所は元は東京都台東区天王寺谷中霊園であったが、後に子の長生により東京都世田谷区北烏山に有る日蓮宗の妙祐山幸龍寺に改葬された。長国の後は長男・長生が後を継ぎ、子爵を授爵する。長生は海軍中将に進んだ。

辞世の句は「夢よ夢 夢てふ夢は夢の夢 浮世は夢の 夢ならぬ夢」。

尚、文久3年の行動では軍を連れて京都へ向かった事や、元外国奉行水野忠徳町奉行井上清直も同行している為、クーデターを図ったのではないかとされている。また、黒幕は水野忠徳とも言われている。

関連項目