セシル・フィルダー
セシル・フィルダー(Cecil Grant Fielder , 1963年9月21日 - )はアメリカ合衆国カリフォルニア州出身の元プロ野球選手(内野手)。アメリカメジャーリーグ、日本プロ野球でプレーした。息子に現役メジャーリーガーのプリンス・フィルダーがいるが、現在では絶縁状態である。
基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
生年月日 | 1963年9月21日(60歳) |
身長 体重 |
6' 3" =約190.5 cm 275 lb =約124.7 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 一塁手 |
プロ入り | 1982年 ドラフト4巡目 |
初出場 |
MLB / 1985年7月20日 NPB / 1989年4月8日 |
最終出場 |
MLB / 1998年9月13日 NPB / 1989年9月14日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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来歴・人物
1982年のドラフト4巡目でカンザスシティ・ロイヤルズに入団。1985年、トロント・ブルージェイズでメジャー初昇格。しかし、同時期にブルージェイズには、ウィリー・アップショー(後に福岡ダイエーホークスでプレー)およびフレッド・マグリフが競合する一塁及びDHにいたことから、左投手専門のDH、一塁手および代打要員で、なかなか出場機会に恵まれなかったため、日本を含めてレギュラーを確約できる球団を求めていたところ、阪神タイガースから4番打者としてオファーがあったこともあり、初めてアメリカ国外でプレーすることとなる。
1989年、阪神に入団。背番号44。そのスイングの豪快さから、「荒熊」というニックネームが付けられる。来日当初は変化球が全く打てなかったが、当時の石井晶チーフ兼打撃コーチ(ヘッド格)、柏原純一打撃コーチ、村山実監督らの指導により、変化球打ちを覚え、シーズン開幕後は本塁打を量産するようになる。特に大洋戦には滅法強く、横浜スタジアムでは1試合で場外本塁打を含む3打席連続本塁打を放つなど、大洋戦だけで本塁打16本を記録する。逆に、巨人戦は本塁打3本と弱かった。
同年9月14日の対巨人戦(東京ドーム)で、水野雄仁から三振を喫した際、腹いせに地面に叩きつけたバットが手に当たり骨折。そのままシーズンを棒に振り、本塁打王のタイトルを逃す。それでも、長打率.6276は、その年両リーグ最多の49本塁打を放ったラルフ・ブアイアントの.6275を上回って両リーグ1位であった。
同年オフに残留を希望する阪神球団とは合意しかけていたが、本塁打王を獲得したラリー・パリッシュが翌年からヤクルトの指揮を執る野村克也監督のチーム編成案から外れて解雇となったことで代理人が一方的に契約破棄を通告し、メジャーリーグへ復帰しデトロイト・タイガースと契約に至る。
メジャー復帰後1年目の1990年に、ジョージ・フォスターが1977年に記録して以来、メジャーにおいて13年ぶりとなる50本塁打以上を記録する。また、翌年の1991年とあわせて本塁打王、打点王のタイトル二冠を2年連続で獲得する。1992年にも打点王を獲得し、ベーブ・ルース以来のアメリカンリーグにおける3年連続の打点王となる。MVP級の活躍であったが、1990年は、リッキー・ヘンダーソン(1位投票数28のうち14票、フィルダーは10票)に、1991年は、カル・リプケン(1位投票数28のうち15票、フィルダーは9票)に僅差で敗れ、それぞれ2位に終わっている。
当時のタイガースの監督であったスパーキー・アンダーソンは、同じく日本からの出戻り組のビル・ガリクソンやトニー・バナザードがチームに在籍して活躍していたこともあって、「日本製品は素晴らしい!!」と形容したこともあった。また、タイガースの本拠地があるデトロイトでは、地元の新聞に「デトロイトが受け入れた唯一の日本製品」と称されたこともあった(当時日本とは貿易摩擦が問題となっており、デトロイトの主要産業である車が日本からの輸入車で苦戦を強いられていたため、特にデトロイトでは日本に対する反感が強かった)。
日本帰りであったことから、その肥満体型を揶揄してスモーレスラーなどと呼ばれることもあった。不振が続いた時のブーイングでは、必ずこの名称で呼ばれていた。阪神からメジャーに復帰した際にも、「なぜあのような肥満をとった?」とチーム関係者及びファンからの非難があったが、本塁打を量産することによりそれらの声を打ち消した。
1992年には、ロブ・ディアー(後に阪神でプレー)およびミッキー・テトルトンと30発トリオを結成したが、それは同時に130三振トリオでもあり、打率が低く、三振が多く、しかも投手力が弱かったため、チームの成績は振るわなかった。
1996年途中にルーベン・シエラとのトレードでニューヨーク・ヤンキースへ移籍し、ワールドシリーズを制して世界一となった。1998年にはアナハイム・エンゼルスに移籍するもシーズン途中に解雇され、同シーズン中にクリーブランド・インディアンスへ移籍。同年引退。
引退後は、かねてから長距離砲として注目されていた、長男プリンス・フィルダーの代理人に専念する。
2004年になって突然、「セシル・フィルダーがギャンブルにのめりこみ、莫大な借金を抱えて自己破産した上に蒸発した」というニュースが流れた。妻とも離婚し、フロリダの豪邸はゴミが散らかり放題と悲惨な状況であった。プリンス・フィルダーは父に代わる新たな代理人を雇うこととなった。以後、絶縁状態にあったが、フィルダーの消息はその後判明し、事なきを得た。そして、社会復帰し、2007年はフロリダ州の独立リーグのチームで監督を務め、2008年はCan-Am Leagueのアトランティックシティ・サーフの監督に就任。
年度別打撃成績
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1985 | TOR | 30 | 81 | 74 | 6 | 23 | 4 | 0 | 4 | 39 | 16 | 0 | 0 | 0 | 1 | 6 | 0 | 0 | 16 | 2 | .311 | .358 | .527 | .885 |
1986 | 34 | 90 | 83 | 7 | 13 | 2 | 0 | 4 | 27 | 13 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 0 | 1 | 27 | 3 | .157 | .222 | .325 | .548 | |
1987 | 82 | 197 | 175 | 30 | 47 | 7 | 1 | 14 | 98 | 32 | 0 | 1 | 0 | 1 | 20 | 2 | 1 | 48 | 6 | .269 | .345 | .560 | .905 | |
1988 | 74 | 190 | 174 | 24 | 40 | 6 | 1 | 9 | 75 | 23 | 0 | 1 | 0 | 1 | 14 | 0 | 1 | 53 | 6 | .230 | .289 | .431 | .721 | |
1989 | 阪神 | 106 | 454 | 384 | 60 | 116 | 11 | 0 | 38 | 241 | 81 | 0 | 0 | 0 | 3 | 65 | 7 | 2 | 107 | 13 | .302 | .403 | .628 | 1.031 |
1990 | DET | 159 | 673 | 573 | 104 | 159 | 25 | 1 | 51 | 339 | 132 | 0 | 1 | 0 | 5 | 90 | 11 | 5 | 182 | 15 | .277 | .377 | .592 | .969 |
1991 | 162 | 712 | 624 | 102 | 163 | 25 | 0 | 44 | 320 | 133 | 0 | 0 | 0 | 4 | 78 | 12 | 6 | 151 | 17 | .261 | .347 | .513 | .860 | |
1992 | 155 | 676 | 594 | 80 | 145 | 22 | 0 | 35 | 272 | 124 | 0 | 0 | 0 | 7 | 73 | 8 | 2 | 151 | 14 | .244 | .325 | .458 | .783 | |
1993 | 154 | 672 | 573 | 80 | 153 | 23 | 0 | 30 | 266 | 117 | 0 | 1 | 0 | 5 | 90 | 15 | 4 | 125 | 22 | .267 | .368 | .464 | .832 | |
1994 | 109 | 481 | 425 | 67 | 110 | 16 | 2 | 28 | 214 | 90 | 0 | 0 | 0 | 4 | 50 | 4 | 2 | 110 | 17 | .259 | .337 | .504 | .840 | |
1995 | 136 | 578 | 494 | 70 | 120 | 18 | 1 | 31 | 233 | 82 | 0 | 1 | 0 | 4 | 75 | 8 | 5 | 116 | 17 | .243 | .346 | .472 | .818 | |
1996 | 107 | 460 | 391 | 55 | 97 | 12 | 0 | 26 | 187 | 80 | 2 | 0 | 0 | 3 | 63 | 8 | 3 | 91 | 11 | .248 | .354 | .478 | .833 | |
NYY | 53 | 228 | 200 | 30 | 52 | 8 | 0 | 13 | 99 | 37 | 0 | 0 | 0 | 2 | 24 | 4 | 2 | 48 | 7 | .260 | .342 | .495 | .837 | |
'96計 | 160 | 688 | 591 | 85 | 149 | 20 | 0 | 39 | 286 | 117 | 2 | 0 | 0 | 5 | 87 | 12 | 5 | 139 | 18 | .252 | .350 | .484 | .834 | |
1997 | 98 | 425 | 361 | 40 | 94 | 15 | 0 | 13 | 148 | 61 | 0 | 0 | 0 | 6 | 51 | 3 | 7 | 87 | 14 | .260 | .358 | .410 | .768 | |
1998 | ANA | 103 | 439 | 381 | 48 | 92 | 16 | 1 | 17 | 161 | 68 | 0 | 1 | 0 | 3 | 52 | 1 | 3 | 98 | 17 | .241 | .335 | .423 | .757 |
CLE | 14 | 37 | 35 | 1 | 5 | 1 | 0 | 0 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 1 | 13 | 1 | .143 | .189 | .171 | .361 | |
'98計 | 117 | 476 | 416 | 49 | 97 | 17 | 1 | 17 | 167 | 68 | 0 | 1 | 0 | 3 | 53 | 1 | 4 | 111 | 18 | .233 | .324 | .401 | .725 | |
MLB:13年 | 1470 | 5939 | 5157 | 744 | 1313 | 200 | 7 | 319 | 2484 | 1008 | 2 | 6 | 0 | 46 | 693 | 76 | 43 | 1316 | 169 | .255 | .345 | .482 | .827 | |
NPB:1年 | 106 | 454 | 384 | 60 | 116 | 11 | 0 | 38 | 241 | 81 | 0 | 0 | 0 | 3 | 65 | 7 | 2 | 107 | 13 | .302 | .403 | .628 | 1.031 |
- 各年度の太字はリーグ最高
MLBでのタイトル・表彰・記録
- 本塁打王:2回(1990年、1991年)
- 打点王:3回(1990年~1992年)
- シルバースラッガー賞:2回(1990年、1991年)
- ベーブ・ルース賞:1回(1996年)
- オールスター出場:3回(1990年、1991年、1993年)