ジャクリーン・ケネディ・オナシス

アメリカ合衆国大統領・ジョン・F・ケネディ夫人 (1929-1994)

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ジャクリーン・リー・ブービェ・ケネディ・オナシス(Jacqueline Lee Bouvier Kennedy Onassis, 1929年8月28日 - 1994年5月19日)は、ジョン・F・ケネディアメリカ合衆国大統領の夫人であり、1961から63年まで米国のファーストレディであった。

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ホワイトハウスの最初の公式ポートレート

幼年期、家族構成、教育

ジャクリーン・リー・ブービェはニューヨークにおいてジョン・ジャック・ヴェルノウ・ブービェⅢ世(1891-1957)の長女として誕生した。父はフランス系移民の株仲買人でありプレイボーイとして名を馳せた。母は銀行頭取の娘であるジャネット・ノートン・リーである。母方の家系はジャガイモ飢饉の際にアメリカに逃れたアイルランド移民であり、祖父はニューヨーク州立公立学校校長であった。だがジャネットは人々に祖父を紹介するときメリーランド州生まれの南北戦争の帰還兵であると話したがったのであった。

両親は彼女の幼少時に離婚しており、母はヒュー・D・オーチンクロスと再婚している。彼はジャネットとの結婚の前に二度の結婚、離婚歴があり小説家ゴア・ヴィダルは二度目の結婚でもうけた。

彼女にはリー・ラジヴィル・ロスと言う名の妹がいる。妹には3回の結婚・離婚歴があり、その相手は出版会社の重役マイケル・キャンフィールド、[[ポリッシュ・プリンス・スタニスラス・ラジウィル]、そして映画監督のハーバード・ロスである。 父親の血統において、ブーヴィエ姉妹は17世紀ニュー・アムステルダムに移住したオランダ系アフリカ人の商人を先祖に持つヴァン・サールスの子孫である。

幼年時代、ジャッキー・ブービェはきちんとした躾を受け、馬が大好きであった(その嗜好は大人になっても続いている)。彼女は馬術競技において幾つかのトロフィーやメダルを獲得した。継父の家の近くにハマースミスファーム牧場における広大な土地を彼女はこよなく愛した。彼女は読書や作詩を好み父を敬愛している様子であった。母親は古風で厳格な女性で、彼女に厳格にエチケットやマナー、着こなしなど上流階級の習慣を教え込んだ。彼女と父親が暖かい愛情を育んだ一方、母親はより厳しく彼女を監督しようとしたのである。

ケネディとの結婚

ミスポーターズスクールからヴァサー女子大学に進んだジャクリーンは在学中にフランスに渡りソルボンヌに学ぶ。帰国後、ジョージ・ワシントン大学を卒業し、ワシントンにある新聞社でカメラマンとして社交欄を担当する。株式仲買人のジョン・ハステッド・ジュニアと婚約していたが、ジョン・F・ケネディ上院議員と出会い婚約は解消した。1953年9月12日にロードアイランド州ニューポートで民主党の新星、ジョン・F・ケネディ上院議員と結婚した。彼らは四人の子供をもうけた。アラベラ(1956年に死産)、キャロライン・ブービェ・ケネディ(1957年生)、ジョン・F・ケネディ・ジュニア(1960年 - 1999年)、パトリック・ブービェ・ケネディ(1963年生、生後間もなく死去)。彼らの結婚生活には多くの問題があった。ケネディは多くの女性問題を抱え、また深刻な健康上の問題も抱えていたが、ジャクリーンはその多くを黙殺していた。夫妻はジョージタウンのタウンハウスで結婚の最初の年を過ごした。

ジャクリーンは義父に愛情を感じ、その愛情は返されたように思われた。彼女には政治家の妻として宣伝の大きな可能性が感じられた。さらに彼女は義理の弟、ロバート・ケネディにも接近した。しかしながら彼女はケネディ一族の競争的で、運動的、幾らかの粗野な性質を好まなかった。彼女はより静かで、内気であった。ケネディの姉妹は彼女を「the deb,」の愛称で呼んだ。また彼女は、ケネディ一族の伝統的なタッチフットボールゲームに参加するのを常に嫌った。

合衆国ファースト・レディ

ケネディは1960年の大統領選挙リチャード・ニクソンに辛勝し、1961年1月20日に第35代アメリカ合衆国大統領に就任した。ジャクリーンは米国史上最年少のファーストレディの一人となった。

ファーストレディ(その呼称を彼女は馬の名前のようだとして好まなかった。)として彼女は、その生活の全てを詳細に調査され、スポットライトに晒されることを強いられた。彼女は高価なフランスオートクチュール・デザイナーの衣服を強く好み、それらを着ることはアメリカ人デザイナーへの背信行為と受け取られることがあった。このことに対し彼女はニューヨークのシェ・ニノンのようなアメリカのドレスメーカーにフランスの流行デザインを真似たものを作らせ、批判の目をかわした。彼女の公式行事での衣装については、ノーマン・ノレルのようなアメリカ人デザイナーを多数の中から選ぶことができた。彼女はバーグドーフ・グッドマンを考えたが、結局はハリウッドのデザイナー、オレッグ・カッシーニを選択した。彼女はファーストレディとして、アメリカ国内および国際的に流行ファッションの象徴となった。

ケネディの暗殺

ケネディ大統領が1963年11月22日にテキサス州ダラス暗殺されたとき、ジャクリーンはケネディの隣に座っていた。彼女は大統領の頭部が車の後部に飛び散ったのを目撃したことをウォーレン委員会に証言した。しかしながらザプルーダー・フィルムに記録されたように、彼女は大統領が頭部を銃撃されたた時点で、その頭部を目撃するのが可能な位置にはなかった。数秒後に彼女はリムジンのトランクの左後部に上り、ケネディの飛び散った頭蓋の一部を拾い上げた。彼女はパークランド病院の医師にそれを手渡した。

葬儀

ケネディ暗殺後の彼女の勇気は、世界中の賞賛の的となった。彼女はケネディに対する悲嘆の象徴となった。二人の子どもの手を握り、連邦議会議事堂で娘と共に棺台に跪き、ホワイトハウスから聖マシュー大聖堂まで棺を積んだケーソンの後を歩き、ミサの後アーリントン国立墓地で墓前に火を灯した。ロンドン・イブニング・スタンダードは「ジャクリーン・ケネディはアメリカ人に彼らが常に欠いていた物:威厳を与えた。」と伝えた。

夫の暗殺後の人生

暗殺の1週間後に、彼女はライフ誌のセオドア・H・ホワイトからインタビューを受けた。そのインタビューで、彼女はケネディ政権時代を「キャメロット Camelot 」(華やかで魅力ある時代)と呼んだ。

彼女は悲嘆に暮れ、一年間公の場に姿を現さなかった。その後彼女はプライバシーを守るため静かな隔離生活を強いられることとなり、ケネディの暗殺と葬儀の結果自らの生活を失った。多くのアメリカ人にとって彼女は11月の4日間におけるその勇気で記憶される。

オナシスとの結婚

1968年10月20日に彼女はギリシャのスコルピオス島で、海運王アリストテレス・オナシスと再婚し、シークレットサービスの保護対象から外れた。義理の弟であったロバート・ケネディが三ヶ月前に暗殺されたとき、ジャクリーンはケネディ一族が「ターゲットにされる」なら「次に狙われるのは自分の子供たちだ。」と語りアメリカ合衆国を去らなければならない、と決心した。したがって、オナシスとの結婚は意味があるように思われた。オナシスには彼女が求めた財力と保護する力があった。一方ジャクリーンにはオナシスが渇望した社会的地位があった。オナシスはジャクリーンと結婚するためオペラのディーバ、マリア・カラスとの関係を清算した。

彼らの結婚は恋愛による物ではなかった。夫妻は滅多に時を共に過ごさなかった。オナシスはキャロラインやケネディ・ジュニア(オナシスの息子アレクサンダーはケネディ・ジュニアに飛行機操縦の手ほどきをした。彼らはそれぞれ飛行機の墜落で死亡した。)とよい関係を持ったが、ジャクリーンは彼女の継娘クリスティーナ・オナシスとよい関係を持てなかった。ジャクリーンはその多くの時間を旅行と買い物に費やした。(その浪費癖はケネディ大統領を以前激昂させた。)オナシスは離婚申請を考えたが、1975年3月15日に死去しジャクリーンに莫大な遺産を残した。

パパラッチがギリシャの島でジャクリーンの裸を盗撮し、ハスラー誌の出版者ラリー・フリントはその写真を買い取り1975年8月号でそれを公表した。そのことは彼女とケネディ一族を非常に当惑させた。

彼女は後年、バイキング社、後にダブルデイ社で編集人を務め、ニューヨークやマーサズ・ヴィンヤード島でベルギー出身のユダヤ系財界人、ダイヤモンド商のモーリス・テンペルスマンと穏やかに暮らした。1994年に非ホジキン種リンパ腫と診断された彼女は、5月19日に5番街1040番地にあるアパートで静かに死を迎えた。

彼女の葬儀は彼女自身が洗礼を受けた教会で5月23日に行われ全国にテレビ中継された。彼女の亡骸は飛行機でワシントンDCに運ばれ、アーリントン国立墓地にある最初の夫ケネディの隣に埋葬された。葬儀ではビル・クリントン大統領によるスピーチが行われ、二人のケネディの遺児は、彼女のマホガニーの棺に花を置き、アメリカ史での注目すべき時代に別れを告げた。

関連書籍

  • Farewell, Jackie: A Portrait of Her Final Days, Edward Klein, Viking Books, 2004.
  • All Too Human: The Love Story of Jack and Jackie Kennedy, St. Martin's Press, 2003.
  • Just Jackie: Her Private Years, Ballatine Books, 1999.
  • The Kennedy Curse: Why Tragedy Has Haunted America's First Family for 150 Years, Pocket Books, 1996.
  • "The Jackie Handbook", MQ Publications, 2005 [1]

外部リンク