プシェミスウ1世

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プシェミスウ1世ポーランド語:Przemysł I、1220年6月5日/1221年6月4日 - 1257年6月4日)は、ヴィエルコポルスカ公。ウィシチェ公(在位1239年 - 1241年)、弟ボレスワフとともにヴィエルコポルスカ公(在位1241年 - 1247年)、ポズナングニェズノ公(在位1247年 - 1249年)、ポズナン=カリシュ公(在位1249年 - 1250年)、単独でヴィエルコポルスカ公(在位1250年 - 1253年)、ポズナン公(在位1253年 - 1257年)。

プシェミスウ1世の印璽
ポズナンの教会にあるかなめ石、プシェミスウ1世の顔だと信じられている

生涯

ヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツと、東ポモジェムシチュイ1世の娘ヤドヴィガの間に長男として生まれた。父の死後、プシェミスウは父の支配していたヴィエルコポルスカの一部を相続し、ウィシチェ公となった。その後、彼はヴィエルコポルスカの他の地域を回復することに努めた。1241年、シロンスクヘンリク2世敬虔公がレグニツァの戦いで戦死すると、プシェミスウと弟のボレスワフはポズナン公国とグニェズノ公国を入手し、さらにはシロンスク公によって一時的に支配されていたヴィエルコポルスカをついに回復することが出来た。

1244年、プシェミスウはヘンリク2世敬虔公の娘エルジュビェタと結婚した。この時、オポーレ公ヴワディスワフからカリシュを返還された。1247年、プシェミスウはポズナン=カリシュ公となったが、地元の貴族に嫌われてカリシュを弟ボレスワフに譲渡した。またボレスワフ2世ロガトカからサントクを奪い、ポズナン司教ボグファウ2世と同盟関係を築いた。1249年、彼は弟と領地を交換し、グニェズノを譲って再びポズナン=カリシュ公となった。1250年、理由は不明だが、プシェミスウは弟ボレスワフを逮捕して、単独でヴィエルコポルスカ(ポズナン、グニェズノ、カリシュ)の公となった。1253年には、ボレスワフは兄の赦しを受けて釈放され、カリシュ=グニェズノ公となった。

プシェミスウは1254年5月8日にクラクフで執り行われたシュツェパノフのスタニスラウスの列聖式に出席した。対外的には、ポーランド北西部を領するプシェミスウは西隣のブランデンブルクの強大化を憂慮していた。彼はポズナンで亡くなり、弟のボレスワフがヴィエルコポルスカ公を継承した。

子女

プシェミスウは妻エルジュビェタとの間に1男4女をもうけた。

  1. コンスタンツィア (1245/6年 - 1281年)…1260年、ブランデンブルク辺境伯コンラートと結婚
  2. エウフロジナ(1253年 - 1298年2月17日)…トシェブニツァの聖クララ修道院院長
  3. アンナ(1253年 - 1295年6月26日以後)オヴィンスカの女子修道院長
  4. エウフェミア(1253年 - 1298年9月5日)…ヴロツワフの聖クララ修道院修道女
  5. プシェミスウ2世(1257年10月14日 - 1296年2月8日)