新葉和歌集

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新葉和歌集(しんようわかしゅう)は南北朝時代の和歌集。 序によれば、 もとは後醍醐天皇皇子宗良親王の私撰集だったが、 南朝第3代長慶天皇の宣旨により晩年の宗良親王を選者として准勅撰の形に改訂し[1]弘和元年(1381年)十二月三日奏覧した。 20巻、約1420首。部立の順序は春(上・下)、夏、秋(上・下)、冬、離別、羇旅、神祇、釈教、恋(五巻)、雑(三巻)、哀傷、賀歌。

元弘(1331-1334)の変以降、弘和までの、宗良親王が仕えた南朝3代50年余りの詠歌を集める。 最多入集は宗良親王の弟に当たりすでに崩御していた先代後村上院御製の100首で、 宗良親王自身の99首がそれに次ぎ(これは先帝を最多入集にするための計らいで、実際には宗良親王は「読人不知」としても64首)、 先々代の後醍醐天皇御製(46首)やその皇子の親王・法親王・内親王ら、当代御製(長慶天皇、52首)、洞院公泰(冷泉入道前右大臣として45首)、二条為忠(42首)、花山院家賢(妙光寺内大臣として53首)、花山院師賢(文貞公として49首)、花山院長親(右近大将長親として25首)、長親母(26首)、花山院師兼(東宮大夫師兼として24首)、また、 尊良親王(宗良親王の兄、44首)や北畠親房(中院入道一品として27首)らなど乱世にあって獅子奮迅の活躍を遂げた英傑の面々も登場する。

吉野朝の悲歌」と称される通り、新葉集では、南朝の衰勢著しい境遇の中で、如何とも挽回しがたい天命への悲憤を込めた、切実な感情の秀歌が目立つ。 平淡な二条派歌風の底に潜む悲痛極まりない感慨は、十三代集のいずれにも見られない、深遠な蘊奥をこの集に賦与している。 同じく、南北朝の動乱期に生まれた神皇正統記と対比させて「神皇正統記は文の新葉和歌集であり、新葉和歌集は歌の神皇正統記である」[2]とも言われる。

巻第十九「哀傷」に収める、新待賢門院(後村上天皇の生母阿野廉子)が後醍醐天皇の死を悼んで詠んだ歌:

後醍醐天皇かくれさせ給ひて又の年の春、花を見てよませ給ひける

時しらぬ なげきのもとに いかにして かはらぬ色に 花の咲くらむ

つはものの乱れによりて、吉野の行宮をも改められて、次の年の春、塔尾の御陵にまうで給はむとて、 かの山にのぼらせ給ひけるに、蔵王堂をはじめて、さらぬ坊舎どもも、みな煙となりにけれど、 御陵の花ばかりは昔にかはらず咲きて、よろづあはれにおぼえ給ひければ、一ふさ御文の中に入れて、たまはせ侍るとて

みよし野は 見しにもあらず 荒れにけり あだなる花は なほ残れども

余談だが、幕末の志士坂本龍馬が、故郷の姉乙女宛に書いた手紙[3]によれば、龍馬は京都で新葉集を探し求めたが手に入らないので、国許土佐にいる吉村三太という男から新葉集を借りて筆写して送ってほしいと頼んでいる。

脚注

  1. ^ そもそもかくてえらびあつむる事も、ただこころのうちのわづかなることわざなれば、あめのしたひろきもてあそびものとならむ事は、 おもひもよるべきにもあらぬを、はからざるに、いま勅撰になぞらふべきよしみことのりをかうむりて、老いのさいはひのぞみにこえ、 よろこびのなみだ、袂にあまれり。これによりて、ところどころあらためなほして・・・
  2. ^ 岩波文庫版『新葉和歌集』(岩佐正による校注・解題)。1940年初版、復刊1992年、2008年。
  3. ^ 坂本龍馬の手紙/慶応元年9月9日付坂本乙女・おやべ宛

関連項目