戸田忠時

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戸田忠時(とだ ただとき、寛永14年(1637年)~正徳2年7月24日(1712年8月25日))は江戸時代初期から中期にかけての譜代大名戸田宗兵衛忠次の次男に生まれる。初代足利藩の藩主。従四位下大炊頭侍従。

人物伝

戸田忠時。忠利とも。初名を九十郎、次いで三郎左衛門、八郎兵衛と称する。寛永17年(1640年)、4歳と幼少ながらも戸田忠次の跡を継いだ。延宝8年(1680年)、目付となり従六位に叙される。天和二年(1682年)の正月には伏見奉行を拝命し、1000石の旗本となる。翌3年(1683年)の12月に従五位下長門守に叙任。貞享3年(1686年)、小姓組番頭となり、元禄2年(1689年)7月には甲州藩主・徳川綱豊に附属され甲州藩家老となり、8000石に加増。綱豊が五代将軍徳川綱吉の継嗣となり、名を家宣と改め江戸城西の丸に入ると、忠時も召しだされ、御側衆として再び幕臣に復帰する。宝永2年(1705年)には老齢のため供奉を免ぜられた。さらに3000石加増の上、下野国足利郡河内郡都賀郡の三郡の内1万1千石に封ぜられ足利藩を立て、官途も大炊頭に改め従四位下に進み、綱吉から朱印をたまわる。同5年(1708年)には致仕隠居し、雁間詰。正徳2年(1712年)7月24日に没した。享年76。法名・徳翁全隆方広院。

家系

三河国田原城主・戸田氏の支流。(家系の詳細図は戸田氏の項を見よ)戸田政光の次男・戸田庄左衛門光忠を祖とし、尊次の代に三河国田原藩主となる。忠次の嫡男・忠昌は伯父の宇都宮藩主・戸田忠能の養子となり、次男の忠時が家督を継いで旗本として家禄を得た。足利藩を立藩し、一万一千石で存続する。

祖先

戸田光忠流嫡系歴代当主。主に下野国宇都宮藩藩を務める。


歴代当主

  1. 戸田忠時(ただとき)従四位下大炊頭。旗本 戸田氏傍系15世孫戸田忠次(尊次の次男)の長男。加増し立藩。足利藩主。
  2. 戸田忠囿(ただその)従五位下大隅守。侍従。戸田忠時の四男。
  3. 戸田忠位(ただたか)従五位下出雲守。戸田忠囿の嫡男。
  4. 戸田忠言(ただとき)従五位下大炊頭。戸田忠位の長男。
  5. 戸田忠喬(ただたか)従五位下大炊頭。戸田忠言の八男。
  6. 戸田忠禄(ただとみ)従五位下長門守。戸田忠喬の三男。
  7. 戸田忠文(ただあや)従五位下大炊頭。本家、宇都宮藩主 戸田忠温の四男。
  8. 戸田忠行(ただゆき)従五位下長門守。戸田忠禄の四男。子爵授爵。
  9. 戸田忠雄(ただお)
  10. 戸田忠孝(ただたか)
  11. 戸田忠武(ただたけ)

関連項目