大内盛見

1377-1431, 室町時代の武将、守護大名。大内弘世の子。本姓は多々良。官位は従四位上・左京大夫。室町幕府相伴衆、周防・長門・筑後・豊前の守護。勅撰集『新続古今和歌集』に1首入集

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大内 盛見(おおうち もりみ、1377年天授3年/永和3年) - 1431年8月6日永享3年6月28日))は、室町時代前期の守護大名大内氏の第11代当主。父は第9代当主・大内弘世(盛見は6男)、母は三条氏。大内義弘の弟、ほかの兄弟に満弘、弘正、弘茂。子に大内教弘大内教幸。幼名は六郎。大内介、周防守、左京大夫。従四位下、従四位上。

1377年、大内弘世の子として山口に生まれる。1399年応永の乱を起こした兄・義弘が幕府軍と戦って敗死した後、在国していた盛見は兄の後を継ごうとした。一方、兄と共に応永の乱に参加していた大内弘茂(盛見の弟)は兄の敗死と共に幕府に降伏し、将軍・足利義満に臣従することでその後ろ盾を得て、兄の後を継ごうとしたため、ここに盛見と弘茂による後継者争いが起こった。盛見は1401年長門国にて弘茂を滅ぼし、さらに弘茂の後を継いだ大内道通をも滅ぼして、家督を掌握した。幕府も盛見に対抗できるような人物がいなくなったため、やむなくその家督相続を追認している。

以後は幕命により九州の経営に尽力し、九州探題渋川満直を援助して九州における騒乱を平定して筑前国豊前国守護にも任じられた。しかし筑前を所領としたことから、少弐氏大友氏とその領有をめぐって敵対関係となり、九州に遠征して両氏と戦ったが、1431年に筑前深江にて戦死した。享年55。死後、後継ぎ争いの末に甥の大内持世が継いでいる。

法号は道雄、のちに国清寺殿大先徳雄。墓所は山口市の正宗山洞春寺。また、福岡県糟屋郡粕屋町酒殿・浄土宗・徳鳳山崇月院泉蔵寺に首塚の墓所がある。法号は崇月院殿二品大光徳鳳大居士。

文人としても優れ、李氏朝鮮と通交して大きな利益を得ている。


先代
大内義弘
周防大内氏歴代当主
1401 - 1431
次代
大内持世