ジャッキー・イクス
ジャッキー・イクス(Jacky Ickx、1945年1月1日 - )は、ベルギー生まれの、かつてF1で活躍した元レーシングドライバーである。また、ル・マン24時間レースでの活躍も有名である。
F1での経歴 | |
---|---|
国籍 | ベルギー |
所属チーム |
クーパー, フェラーリ, ブラバム, マクラーレン, アイソ, ロータス, ウイリアムズ, エンサイン, リジェ |
活動時期 | 1967 - 1979 |
出走回数 | 114 |
優勝回数 | 8 |
通算獲得ポイント | 181 |
表彰台(3位以内)回数 | 25 |
ポールポジション | 13 |
ファステストラップ | 14 |
F1デビュー戦 | 1967年イタリアGP |
初勝利 | 1968年フランスGP |
最終勝利 | 1972年ドイツGP |
最終戦 | 1979年アメリカ東GP |
タイトル | 0 |
プロフィール
1967年にニュルブルクリンクで行われたドイツGPにおいて、ティレルF2チームから参戦。予選において、並み居るF1ドライバーを凌ぎ、ジム・クラーク、デニス・ハルムに次ぐ総合3位に相当する予選タイムをマーク。レースでも、グリッドはF1の後ろとなるにも関わらず、早くも4周目終了時には12台を抜いて5位を走行して見せた。惜しくもレースはリタイアに終わったが、この走りはF1チームのマネジャー達に対する強いアピールとなり、イタリアGPではクーパーのワークスシートを獲得。初戦で早くも6位入賞を果たした。
翌1968年にはフェラーリへ移籍。フランスGPで初優勝、ドイツGPではポールポジションを獲得する活躍を見せる。ブラバムへ移籍した1969年と、フェラーリへ戻った1970年にはそれぞれ2勝、3勝をマークして、ドライバーズランキング2位となった。特に1970年は、キャリアの中でも最もチャンピオンに近づいた年であったが、ランキングトップだったヨッヘン・リントの事故死を受け、非公式ながら「死んだ人物からチャンピオンを奪い取るわけにはいかない」と発言しており、そういった気持ちの元でのレースだったようだ。
しかし、この年を境にイクスのF1キャリアは下り坂を迎えることとなる。折からのグランドエフェクトカーの時代に彼のドライビングスタイルが合わなかったことも一因ではあった。その後、エンサインやリジェなどの中堅チームに在籍し、1979年をもってF1から引退した。
F1引退後のイクスは、F1参戦中より活躍を見せていたスポーツカーを中心に活動をすることとなり、特にル・マンにおいては、1969年・1975年 - 1977年・1981年・1982年と実に6勝をマークした。これは2005年にトム・クリステンセンに破られるまで、長く最多勝記録であった。また、1983年にはパリ・ダカール・ラリーにも参戦し、優勝を飾った。
モナコGPの協議役員も務め、チェッカーフラッグを振る役目を果たしていたが、1984年の豪雨のレースでは、レース中盤に赤旗による打ち切りの判断を下したことが、猛然と迫ってくるアイルトン・セナが首位走行のアラン・プロストを交わすことを阻止する為だったのではないのかと物議を醸したこともあった。