FCバルセロナ

スペインのサッカークラブ

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FCバルセロナカタルーニャ語: Futbol Club Barcelona)は、スペインバルセロナを本拠地とするサッカークラブチームである。

FCバルセロナ
原語表記 Fútbol Club Barcelona
愛称 Barça、Azulgrana、Blaugrana、Culers
クラブカラー 青と臙脂(えんじ)
創設年 1899年
所属リーグ リーガ・エスパニョーラ
所属ディビジョン プリメーラ・ディビシオン
ホームタウン カタルーニャ自治州バルセロナ
ホームスタジアム カンプ・ノウ
収容人数 98,787
代表者 スペインの旗 サンドロ・ロセール
監督 スペインの旗 ジョゼップ・グアルディオラ
公式サイト 公式サイト
ホームカラー
アウェイカラー
サードカラー
テンプレート(ノート)サッカークラブPJ

概要

 
FCバルセロナのホームスタジアムであるカンプ・ノウ。

FCバルセロナは1899年に創設されたカンプ・ノウをホームスタジアムとし、リーガ・エスパニョーラプリメーラ・ディビシオンに所属するサッカークラブである。愛称は「バルサ(Barça)」、またはクラブカラーから「ブラウ・グラーナ(Blau Grana えんじと青)」と呼ばれる。数々のタイトルを獲得した世界でも屈指のビッグクラブ、名門クラブであり、リーガ・エスパニョーラの創立以来一度もプリメーラ・ディビシオンから降格したことがない。これは他にレアル・マドリードアスレティック・ビルバオのみである。

クラブ以上の存在(Més Que Un Club)」がクラブのスローガンであり、ユニフォームの後襟にもこの言葉がプリントされている。「攻撃的でスペクタクルなフットボール」をクラブのアイデンティティとしており、試合に勝ったとしても内容が伴わなければサポーターから容赦ないブーイングが浴びせられる。このような習慣はスペイン国内の多くのクラブチームに存在するものではあるが、FCバルセロナは特にこの傾向が顕著であり、結果よりも内容で遥かに大きいものを求められる面が強い。

 
2005-2006シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ優勝パレードの様子。

運営について

クラブ運営上の特徴として一般市民などからの会員を募り、その会費でチームを運営している点が挙げられる。これをソシオといい、ソシオの会員は現在世界中で14万に達しており、日本でも2004年6月より会員の募集が行われている。「カンテラ」と呼ばれる下部組織が非常に発達しており、現チームの選手も含め幾多の名選手を輩出してきた。このカンテラ出身選手は生え抜きとしてサポーターから特に絶大な声援を受けることが多い。

2010年には世界有数の経済誌『フォーブス』よるスポーツチームの資産価値の格付けにおいて、FCバルセロナは10億ドル(約850億円)と算出されており、世界第4位の資産価値のサッカークラブと評価されている[1]

他チームとの関係

サッカーのみならず政治的・地域的に長年の対立関係にある首都マドリードレアル・マドリードとは長年のライバルである。

このレアル・マドリードとの試合はエル・クラシコ(El Clásico)と呼ばれ、100年近く因縁の対決を続けており、スペイン国内だけでなく世界的にも注目度の高いイベントである。また、同じくバルセロナを本拠地とするRCDエスパニョールとの試合はバルセロナ・ダービーと呼ばれ、これもリーグ屈指の注目度を誇る対戦である。

なお、FCバルセロナとレアル・マドリード間の移籍は「禁断の移籍」とされ、「裏切り」と呼ばれることも多い。また、第三者のクラブ選手の移籍においても競合することが多く、これまで幾多の選手をめぐって争奪戦を繰り広げている。

このレアル・マドリードとの対立関係から同じくレアル・マドリードをライバルとするアトレティコ・マドリードとの関係は良好であるが、対戦成績が奮わない相手でもあり、リーガ・エスパニョーラ及びUEFAチャンピオンズリーグ優勝を果たした2005-2006シーズンは2006年2月6日の対戦にてカンプ・ノウでの無敗記録及びリーグ連勝記録を止められ、2009-2010シーズンは2010年2月15日の対戦にて当シーズンのリーガ・エスパニョーラにおける唯一の敗戦を喫している。

エクアドルのサッカークラブ、バルセロナSCはバルセロナからの移民がエクアドルのグアヤキルで設立したもので、クラブ間の資本関係などはない。ただ、エンブレムは非常に似ており、FCバルセロナも親善試合を行ったことがある。

歴史

創立期

 
創始者のジョアン・ガンペール

1899年スイス人実業家ハンス・ガンパー(ジョアン・ガンペール)ら11名により創立された。この時、上記の「えんじと青」のチームカラーが決められたが、このチームカラーとなったのは、ガンパーの縁深かったFCバーゼルのチームカラーに由来すると一般的には信じられている[2]。初代会長はイギリス人のウォルター・ワイルドであるが、初期のチーム関係者にはスイス人も多かった。

1929年から続くリーガ・エスパニョーラの初代王者である。

レアル・マドリードとの対戦はエル・クラシコと呼ばれ、1902年の第1回コパ・デルレイ(スペイン国王杯)から因縁の対決(3-1でバルセロナの勝利)を続けている。その背景には、プリモ・デ・リベラ将軍による独裁政権時代(1923年-1930年)とフランコ独裁政権時代(1939年-1975年)のカタルーニャ弾圧がある。当時、カタルーニャの人々は自分たちの言葉・カタルーニャ語を話す事が許されずスタジアムの中でだけそれが許された。これによりスペインサッカー界の軸は、バルセロナとアスレティック・ビルバオからレアル・マドリードへと移った。

ホセ・ルイス・ヌニェス会長時代

ファイル:UEFA Champions Cup.jpg
1992年にUEFAチャンピオンズリーグで初優勝した時のトロフィー

1978年、初めてソシオ会員よる選挙を実施し、ホセ・ルイス・ヌニェスが会長に選出された。

ヌニェスは経営基盤を安定させる事に努め、カンプ・ノウの改築による観客収容数の増加、有名選手の獲得によって収益を上げ、ソシオ会員数を大幅に増加させた。自ら公約に掲げた「若手育成の充実」を図るため、ラ・マシアと呼ばれる寮を開設し、カンテラに優秀な若者を集めるようになる。この時期のソシオ会員数の増加やカンテラの充実は現在のクラブ組織の基礎となっている。

1988年4月、ヌニェスと選手と対立、5月にヨハン・クライフを監督に迎え建て直しを図ったが、シーズン終了後に選手が大量退団、残留した選手は9人という異常事態に発展する。このため1987-88、1988-89、1989-90シーズンの成績は期待を大きく裏切るものであった。1989-90シーズン終了後、ソシオはクライフの解任を要求したが、クラブ側はクライフの続投を選択した。これは、ヌニェスと選手の対立を埋めるには、クラブのOBであるクライフ監督が最適であったと考えられていたことによる。

1990年代前半に入り、続投したクライフ監督の下、チームはリーガ4連覇とUEFAチャンピオンズリーグ初制覇を果たし、エル・ドリーム・チームと呼ばれることになる。

1996-97シーズンは、ボビー・ロブソンを監督に招聘し、ロブソン監督の通訳として、ジョゼ・モウリーニョを起用している。このシーズンはロナウドが得点王に輝いた。

1997-98シーズンに、リバウドを獲得した他、アヤックス・アムステルダムで実績を残したルイ・ファン・ハールを監督に迎える。このシーズンはリーガと国王杯の2冠を達成し、翌1998-99シーズンも圧倒的な強さでリーグ優勝を果たした。

一方で、ファン・ハール監督はオランダ出身選手を重用し、地元カタルーニャ出身者を冷遇し続け、特にクライフ監督時代に活躍した選手を放出していった結果、「バルサ版アヤックス」と呼べるような布陣となった。この結果、1998-99シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ予選リーグ敗退、更には国王杯ボイコット事件などはソシオの反発を招き、2000年にヌニェスは会長を辞任し、シーズン終了後にファン・ハール監督はクラブを去っていった。

ジョアン・ガスパール会長時代

2000-01シーズンはファン・ハールに代わりロレンソ・セラ・フェレールが監督に就任したが、成績不振からシーズン途中に辞任しカルロス・レシャックがチームを受け継ぐも4位に終わった。2001-02シーズンもレシャックが引き続き指揮を執ったがやはり、4位に終わっている。

2002-03シーズンにファン・ハールが監督に復帰したものの、ファン・ハール自身のオランダ代表監督としての成績によるマイナスイメージに加えて、リバウドの退団、パトリック・クライファートらオランダ出身選手の高齢化もチームにとっては負担となった。結果、成績を残せずシーズン途中でファン・ハールは辞任、チームも15年ぶりの6位となった。

ジョアン・ラポルタ会長時代

 
バルセロナの選手達(2008-2009シーズン)

2003年夏の移籍市場にてフランク・ライカールトが監督に就任した他、ロナウジーニョルイス・ガルシアラファエル・マルケスらを獲得。2003-04シーズンは監督交代に伴い、選手選考及びフォーメーションがシーズン中盤までなかなか定まらず苦戦を余儀なくされるも、ウインターブレイク後はロナウジーニョとハビエル・サビオラ、ルイス・ガルシアの3トップを中心とした4-3-3のフォーメーションに落ち着き、また、2004年冬の移籍市場ではエドガー・ダービッツを獲得。リーガ・エスパニョーラの終盤ではリーグ戦8連勝を記録して最終的にはバレンシアCFに次ぐ2位に輝いた。

2004年夏の移籍市場ではサミュエル・エトオヘンリク・ラーションデコらを獲得する一方、パトリック・クライファートフィリップ・コクーマルク・オーフェルマルスら多くのオランダ人選手を放出した他、これまでの主力であったサビオラをASモナコレンタル移籍させるなどしてガスパール前会長時代に獲得したメンバーからの脱却を図り、ロナウジーニョを中心としたチームに変貌。2004-05シーズンは2位のレアル・マドリードに勝ち点9の大差をつけてリーガ・エスパニョーラ優勝を果たした。2005年夏の移籍市場では移籍金を使っての選手補強を全く行わなかったにも関わらず、2005-06シーズンはシーズン開幕前のスーペルコパ・デ・エスパーニャ制覇、2位のレアル・マドリードに勝ち点12の大差をつけてのリーガ・エスパニョーラ連覇に加え、クラブ史上2度目のUEFAチャンピオンズリーグ優勝の3冠を達成する。

2006年7月21日、「ラポルタは任期切れである」との反対派陣営からの訴えをバルセロナ地裁が認めたため、この判決を受けてラポルタは26日に会長職を辞任、新たに会長選挙が行われる事となった。しかし、サッカー部門の成績やクラブ財政再建も上々で仕事ぶりに異を唱える声は少なく、結局他の立候補者がいなかったため自動的に再任された。

2006年夏の移籍市場ではカルチョ・スキャンダルによってセリエBに降格したユヴェントスからジャンルカ・ザンブロッタリリアン・テュラムを獲得して守備面を強化し、また攻撃面でも退団したラーションの後釜としてチェルシーFCからエイドゥル・グジョンセンを獲得した上、レンタル移籍を繰り返していたサビオラを復帰させるなど積極的な補強を行った。しかし、シーズン開幕前にはスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇こそ果たしたものの、UEFAスーパーカップではセビージャFCに大敗。更にFIFAクラブワールドカップ2006でも決勝戦でSCインテルナシオナルに敗れ準優勝に終わる。2006-07シーズンはUEFAチャンピオンズリーグではリヴァプールFCに敗れベスト16に終わり、リーガ・エスパニョーラではエトオやリオネル・メッシが負傷により長期離脱しながらも優勝戦線に留まっていたが、最終的にレアル・マドリードと同勝ち点ながら直接対決の結果で敗れ優勝を逃した。2007年夏の移籍市場ではアーセナルFCからティエリ・アンリを獲得したほか、守備面でもレアル・サラゴサからガブリエル・ミリートを、ASモナコからトゥーレ・ヤヤを、オリンピック・リヨンからエリック・アビダルを獲得。ロナウジーニョとエトオ、メッシの3トップにアンリを加えたカルテットファンタスティック4と称されたものの、エトオは負傷により長期離脱してシーズン前半戦を棒に振り、アンリは自身初のリーガ・エスパニョーラに馴染めず低調な出来に終始し、またロナウジーニョは不調や数々の問題行動を起こしてチームの和を乱す存在となった。2007-08シーズンは4季ぶりの無冠に終わり、この2年間の不振の責任を取る形でライカールトは監督を退任した。この2005-06シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ優勝後2シーズンのチームの低迷は「パリ後の凋落」とも呼ばれる。

この2006-07シーズン及び2007-08シーズンの不振の責任を問い2008年5月、ソシオの1人である弁護士オリオル・ジラルト氏が中心なってラポルタ役員会に対する不信任案が提出された。不信任投票実施には総ソシオの5%、約5,900名の署名が必要であったが、最終的に約9,000人もの署名が集まり、7月6日に不信任投票が実施された。開票の結果は不信任票60.8%。過半数が不信任という結果となったものの解任の為の規定数(全投票数の3分の2)にはわずかに足りず、ラポルタの会長職続投となった。

ライカールトの退任後、かつてのカンテラ出身選手で、現役引退後に2007-08シーズンのFCバルセロナ・アトレティック監督を務めたジョゼップ・グアルディオラが監督に就任。2008年夏の移籍市場ではセビージャFCからダニエウ・アウヴェスセイドゥ・ケイタを、またマンチェスター・ユナイテッドFCからかつてのカンテラ出身選手であったジェラール・ピケを獲得するなど積極的な選手補強を行う一方、ロナウジーニョとザンブロッタをACミランへ、デコをチェルシーFCへと放出するなど主力の整理も行ってチームを再編成した。2008-09シーズンはかつてレアル・マドリードが1989-90シーズンに記録したリーグ史上最多総得点記録である総得点107に次ぐ総得点105及び当シーズンのリーグ最少失点記録を記録してのリーガ・エスパニョーラ優勝に加え、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグでも優勝を果たし、スペイン史上初の主要タイトル3冠を達成した。

2009年夏の移籍市場ではインテル・ミラノからズラタン・イブラヒモビッチ(エトオ+移籍金とのトレード)とマクスウェルを、シャフタール・ドネツクからドミトロ・チグリンスキーを獲得するなど積極的に補強を行い、シーズン開幕前にはスーペルコパ・デ・エスパーニャとUEFAスーパーカップを制覇。更に、FIFAクラブワールドカップ2009では決勝戦で南米代表のエストゥディアンテスを破り優勝。クラブ史上初、スペイン史上としてはレアル・マドリードとアトレティコ・マドリードに次ぎ3クラブ目となるクラブチーム世界一の座に輝くと共に前人未到となる年間6冠を成し遂げた。最終的に2009-10シーズンはコパ・デル・レイではセビージャFCに敗れベスト16、UEFAチャンピオンズリーグではインテル・ミラノに敗れベスト4に終わったものの[3][4]、リーガ・エスパニョーラではリーグ史上最多勝ち点記録となる勝ち点99及びシーズンを通してわずか1敗という記録を残して2連覇を達成した[5]

2009-10シーズン終了後、バレンシアCFからダビド・ビジャを獲得。また、2010年6月30日を以てラポルタは任期満了に伴い会長職を退任した。

サンドロ・ロセール会長時代

ラポルタの退任後、サンドロ・ロセールが会長職に就任。2010年夏の移籍市場ではセビージャFCからアドリアーノを、リヴァプールFCからハビエル・マスチェラーノを獲得。一方でトゥーレ・ヤヤマンチェスター・シティFCに、ドミトロ・チグリンスキーシャフタール・ドネツクへと放出し、ティエリ・アンリラファエル・マルケスとの契約を解除した上、ズラタン・イブラヒモビッチACミランへのレンタル移籍[6]で放出した。2010-11シーズンは開幕前にスーペルコパ・デ・エスパーニャ2連覇を達成したほか、1990-91シーズンから1993-94シーズンにかけて4連覇を達成して以来となるリーガ・エスパニョーラ3連覇を果たし、またUEFAチャンピオンズリーグでも、各国メディアから「異次元のチャンピオン」と絶賛される強さでクラブ史上4度目となる優勝を果たしてシーズン3冠を達成[7][8][9][10][11]、さらにコパ・デル・レイにおいても準優勝の成績を残した。なお、当シーズンはリーガ・エスパニョーラ、コパ・デル・レイ、UEFAチャンピオンズリーグにて計5試合のエル・クラシコが行われ、特に2011年4月16日から同年5月3日までの間に行われた計4試合はクアトロ・クラシコ(Cuatro Clásico、4回のクラシコという意味)と呼ばれた。

2011年夏の移籍市場ではウディネーゼ・カルチョからアレクシス・サンチェスを、さらにアーセナルFCからかつてのカンテラ出身選手であったフランセスク・ファブレガスを獲得。一方でガブリエル・ミリートCAインデペンディエンテに、ボージャン・クルキッチASローマに、ジェフレン・スアレススポルティング・リスボンへ放出した。シーズン開幕前にはかつてレアル・マドリードが1988-89シーズンから1990-91シーズンにかけて達成して以来となるスーペルコパ・デ・エスパーニャ3連覇[12]及び2季振りとなるUEFAスーパーカップ優勝を達成した。

下部組織

概要

FCバルセロナも他のスペイン国内クラブ同様、カンテラと呼ばれるユースチームを所有している。

スペインでは法律により18歳になるまではプロ契約ができないため、近年では育成した選手がトップチームに昇格する直前にプレミアリーグのクラブに引き抜かれる事件がしばしば起きている。アーセナルにはセスクとフラン・メリダリヴァプールにはパチェコマンチェスター・ユナイテッドにはジェラール・ピケが引き抜かれ批判を起こしている。 しかしFCバルセロナ自身、当時12歳だったアルゼンチンCAリーベル・プレートエリク・ラメラを家族ごとスペインに連れてこようとし、アルゼンチン国内で批判の声が上がるなど、特に安価で選手を揃えられる南米などの貧困地域で類似の問題を引き起こしている。

2011年に、川崎市の小学4年生、久保建英君が、日本人では初めてとなるFCバルセロナのカンテラへの入団が内定した。 久保君の強みは、類稀なる技術力と並外れた戦術眼にある。 バルセロナのクリニック関係者の話では、「技術力が高いだけの選手は大勢いるが、バルセロナが必要としているのは、違いを生み出せる選手」であるとのこと。更に通常カンテラに入団出来るのは、カタルーニャ地区出身の子供達が主であるのに対し、海外の選手が入団する為には、各関係者から、かなりの高評価を得られていなければならない。

組織形態

ユースチームは能力や年齢によって、以下の11チームに分けられている。

名称 対象年齢 責任者
FCバルセロナB[13] 全年齢 エウセビオ・サクリスタン・メナ
フベニルA 17歳〜20歳 ガルシア・ピミエンタ
フベニルB 17歳〜18歳 セルジ・バルフアン
カデッテA 15歳〜16歳 ビクトル・サンチェス
カデッテB
インファンティルA 13歳〜14歳
インファンティルB
アレビンA 12歳
アレビンB 11歳
ベンジャミンA 10歳
ベンジャミンB 9歳〜10歳

ユニフォーム

ユニフォームの色
カラー シャツ パンツ ストッキング
FP(1st) 青とえんじ えんじ
FP(2nd)
GK(1st)
GK(2nd)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
FP 1st
 
 
 
 
 
 
 
 
 
FP 2nd
 
 
 
 
 
GK 1st
 
 
 
 
 
GK 2nd
  • 一般に多くのサッカークラブではユニフォームにスポンサーのロゴを入れているが、FCバルセロナはソシオにより運営していることから、スポンサーのロゴを入れないことがクラブの伝統となっていた。しかし2011年シーズンから5年間の契約でカタール財団とスポンサー契約を結び、初の商用ロゴ入りユニホームを着用することを決定している。
  • 上記のような伝統があるが、2006年に児童福祉活動への支援という観点から、ユニセフと毎年190万ドルの寄付、総額950万ドル寄付の5年契約で合意した。これにより、2006年9月12日から史上初めて胸にロゴを入れたユニフォームを着用している。ロゴ本来の色は白であるが、白は宿敵であるレアル・マドリードのチームカラーでもあるため、ホームは黄色、アウェイは水色のロゴになった。
  • 1999-2000シーズン後半は、クラブ創立100周年ユニフォームが使用された。
  • 2005-06、2010-11シーズンのファーストユニフォームのパンツはえんじ色だった。
  • 2ndユニフォームの配色は毎年異なる。2007-08シーズンはシャツ、パンツ共に水色、2006-07シーズンはシャツ、パンツ共にオレンジ色だった。
  • 例年、前年の2ndユニフォームはサードユニフォームとして使用される。
  • バスケットボールなど、サッカー以外のチームでも青色とえんじ色の縦ストライプのユニフォームを用いている。こちらはフットボール部門とは違い、商業的な胸スポンサーロゴ契約が結ばれている。

メンバーとフォーメーション

現所属メンバー

注:選手の国籍表記はFIFAの定めた代表資格ルールに基づく。

No. Pos. 選手名
1 GK   ビクトール・バルデス (第3キャプテン)
2 DF   ダニエウ・アウヴェス ( )
3 DF   ジェラール・ピケ
4 MF   セスク・ファブレガス
5 DF   カルレス・プジョル (キャプテン)
6 MF   シャビ (副キャプテン)
7 FW   ダビド・ビジャ
8 MF   アンドレス・イニエスタ (第4キャプテン)
9 FW   アレクシス・サンチェス
10 FW   リオネル・メッシ ( )
11 MF   ティアゴ・アルカンタラ
13 GK   ホセ・マヌエル・ピント
14 MF   ハビエル・マスチェラーノ ( )
15 MF   セイドゥ・ケイタ ( )
16 MF   セルヒオ・ブスケツ
17 FW   ペドロ・ロドリゲス
19 DF   マクスウェル ( )
20 MF   イブラヒム・アフェライ
No. Pos. 選手名
21 DF   アドリアーノ・コレイア ( )
22 DF   エリック・アビダル
24 DF   アンドレウ・フォンタス
26 DF   マルク・ムニエッサ
27 FW   ジェラール・デウロフェウ
28 MF   ジョナタン・ドス・サントス
29 MF   マルティ・リベロラ
30 MF   セルジ・ロベルト
31 GK   ルベン・ミーニョ
32 DF   マルク・バルトラ
33 DF   セルジ・ゴメス
34 MF   ラフィーニャ
35 DF   マルティン・モントーヤ
36 GK   オイエル・オラサバル
37 FW   クリスティアン・テージョ
38 MF   キコ・フェメニア
39 MF   イサック・クエンカ
EU外選手枠(3人まで)
  アレクシス・サンチェス

スタッフ

監督
  ジョゼップ・グアルディオラ 
助監督
  ティト・ビラノバ

フォーメーション

<4-3-3>

ローン移籍中の選手

in
なし
out
  DF エンリケSEパルメイラス) 2011-
  FW ケイリソンクルゼイロEC) 2011-
  MF アレクサンドル・フレブVfLヴォルフスブルク) 2011-

11/12移籍

クラブ成績

クラブ成績・主要タイトル

シーズン 国内 UEFA 監督 会長
順位 試合 カップ CL カップ[14]
1899-1900 リーグ存在せず 存在せず 存在せず 不明 ウォルター・ワイルド
1900-1901
1901-1902 準優勝 バルトミュー・テラデス
1902-1903 ポール・ハース
1903-1904 アルサー・ウィティー
1904-1905
1905-1906 ジョセップ・ソラー
1906-1907 ジュリ・マリアル
1907-1908
1908-1909 ヴィセン・レイグ
ハンス・カンパー
1909-1910 優勝[15] ハンス・カンパー
1910-1911 オット・グメリン
1911-1912 優勝 ハンス・カンパー
1912-1913 優勝[15]
1913-1914 フランシス・デ・モホ
1914-1915 フランシス・デ・モホ
アルバー・プレスタ
ホアキン・ペリス・デ・バーガス
1915-1916 ラファエル・ロパート
1916-1917 ジョン・バロー ガスパー・ロセス
1917-1918 ジャック・グリーンウェル ハンス・カンパー
1918-1919 準優勝
1919-1920 優勝 リカルド・グラエルス
1920-1921 ガスパー・ロセス
1921-1922 優勝 ハンス・カンパー
1922-1923
1923-1924 エリック・カルドナ
1924-1925 優勝 ジェスツァ・ポスゾニー ハンス・カンパー
1925-1926 優勝 ラルフ・カービー アラディー・バラガー
1926-1927 ジャック・デムビー
1927-1928 優勝 ローマ・フォルンス
1928-1929 1位 18 11 3 4 優勝
1929-1930 2位 18 11 1 6 ジェームス・ベラミー トーマス・ロセス
1930-1931 4位 18 7 7 4 ガスパー・ロセス
1931-1932 3位 18 10 4 4 準優勝 ジャック・グリーンウェル アントニ・オリバー
ジョアン・コマ
1932-1933 4位 18 7 5 6 ジョアン・コマ
1933-1934 9位 18 8 0 10 ジャック・デムビー
1934-1935 6位 22 9 6 7 フェレンツォ・プラトコ エステベ・サーラ
1935-1936 5位 22 11 2 9 準優勝 パトリック・オコーネル ジェセップ・スニョール・ガリーガ
1936-1937 開催されず 不明 不明
1937-1938
1938-1939 ジョセップ・プラナス
1939-1940 9位 22 8 3 11
1940-1941 4位 22 13 1 8 エンリケ・ピネイロ
1941-1942 12位 26 8 3 15 優勝 ラモン・グスマン
1942-1943 3位 26 14 4 8 ジョアン・ジョセップ・ノゲス ジョセフ・ヴィダル・リバス
⇒エンリケ・ピネイロ
1943-1944 6位 26 10 8 8 ジョセフ・アントニ・デ・アルベルト
ジョセフ・ヴェンドレル
1944-1945 1位 26 17 5 4   ホセ・サミティエール ジョセフ・ヴェンドレル
1945-1946 2位 26 14 7 5
1946-1947 4位 26 14 3 9 不明
1947-1948 1位 26 15 7 4 エンリケ・フェルナンデス
1948-1949 1位 26 16 5 5
1949-1950 5位 26 13 3 10 エンリケ・フェルナンデス
ラモン・ローレンス
1950-1951 4位 30 16 3 11 優勝 フェルナンド・ダウシク
1951-1952 1位 30 19 5 6 優勝
1952-1953 1位 30 19 4 7 優勝 アグスティ・モンテリ・ガロバルト
1953-1954 2位 30 16 4 10 準優勝 エンリック・マルティ
1954-1955 2位 30 17 7 6 サンドロ・プッポ
1955-1956 2位 30 22 3 5 ---- 優勝 フェレンツォ・プラトコ
1956-1957 3位 30 16 7 7 優勝 ---- ドメネク・バルマナヤ
1957-1958 3位 30 17 4 9 ---- ドメネク・バルマナヤ
  エレニオ・エレーラ
1958-1959 1位 30 24 3 3 優勝 ---- 優勝   エレニオ・エレーラ
1959-1960 1位 30 22 2 6 ベスト4
1960-1961 4位 30 13 6 11 準優勝 リュビサ・ブロチッチ
エンリケ・オリサオラ
1961-1962 2位 30 18 4 8 ---- 準優勝 ルイス・ミロ エンリック・ラウデ
1962-1963 6位 30 11 9 10 優勝 ---- ラディスラオ・クバラ
ジョセップ・ゴンサルボ
1963-1964 2位 30 19 4 7 ----   セサル・ロドリゲス
1964-1965 6位 30 14 4 12 ----   セサル・ロドリゲス
ヴィセンツォ・サソ
1965-1966 3位 30 16 6 8 ---- 優勝 ロケ・オルセン
1966-1967 2位 30 20 2 8 ----
1967-1968 2位 30 15 9 6 優勝 ---- サルバドール・アルティガス
1968-1969 3位 30 13 10 7 ナルシス・デ・カレーラス
1969-1970 4位 30 13 9 8 ジョセップ・セゲール アグスティ・モンタル
1970-1971 2位 30 19 5 6 優勝 優勝 ビク・バッキンガム
1971-1972 3位 34 17 9 8 ----   リヌス・ミケルス
1972-1973 2位 34 18 10 6 初戦敗退
1973-1974 1位 34 21 8 5 準優勝 ---- 初戦敗退
1974-1975 3位 34 15 7 12 ----
1975-1976 2位 34 18 7 9 ベスト4   ヘネス・バイスバイラー
ラウレアノ・ルイス
1976-1977 2位 34 18 9 7 ベスト8   リヌス・ミケルス
1977-1978 2位 34 16 9 9 優勝 ベスト4 レイモン・カラスコ
1978-1979 5位 34 16 6 12 ---- ----   ルシアン・ミュラー ホセ・ルイス・ヌニェス
1979-1980 4位 34 13 12 9 ---- ホアキム・リフェ
1980-1981 5位 34 18 5 11 優勝 2回戦敗退 エレニオ・エレーラ
1981-1982 2位 34 19 7 8 ----   ウド・ラテック
1982-1983 4位 34 17 10 7 優勝 ---- ----   ウド・ラテック
ジョセップ・ルイス・ロメロ
1983-1984 3位 34 20 8 6 準優勝 ----   セサル・ルイス・メノッティ
1984-1985 1位 34 21 11 2   テリー・ヴェナブルズ
1985-1986 2位 34 18 9 7 準優勝 準優勝
1986-1987 2位 44 24 15 5
1987-1988 6位 38 15 9 14 優勝   ルイス・アラゴネス
1988-1989 2位 38 23 1 4   ヨハン・クライフ
1989-1990 3位 38 23 5 10 優勝 ----
1990-1991 1位 38 25 7 6 ----
1991-1992 1位 38 23 9 6 優勝
1992-1993 1位 38 25 8 5
1993-1994 1位 38 25 6 7 準優勝
1994-1995 4位 38 18 10 10 ベスト8
1995-1996 3位 42 22 14 6 準優勝 ----
1996-1997 2位 42 28 6 8 優勝   ボビー・ロブソン
1997-1998 1位 38 23 5 10 優勝   ルイ・ファン・ハール
1998-1999 1位 38 24 7 7
1999-2000 2位 38 19 7 12 ジョアン・ガスパール
2000-2001 4位 38 17 12 9 ロレンソ・セラ・フェレール
  カルロス・レシャック
2001-2002 4位 38 18 10 10 初戦敗退 ベスト4 ----   カルロス・レシャック
2002-2003 6位 38 15 11 12 初戦敗退 ベスト8 ----   ルイ・ファン・ハール
  ラドミル・アンティッチ
ジョアン・ガスパール
エンリック・レイナ
2003-2004 2位 38 21 9 8 ベスト8 ---- ベスト16  /  フランク・ライカールト ジョアン・ラポルタ
2004-2005 1位 38 25 9 4 初戦敗退 ベスト16 ----
2005-2006 1位 38 25 7 6 ベスト8 優勝 ----
2006-2007 2位 38 22 10 6 ベスト4 ベスト16 ----
2007-2008 3位 38 19 10 9 ベスト4 ベスト4 ----
2008-2009 1位 38 27 6 5 優勝 優勝 ----   ジョゼップ・グアルディオラ
2009-2010 1位 38 31 6 1 ベスト16 ベスト4 ----
2010-2011 1位 38 30 6 2 準優勝 優勝 ---- サンドロ・ロセール
合計 優勝21回 優勝25回[16] 優勝4回 優勝4回[17]

その他国内タイトル

スペインリーグカップ
2回
1982-83、1985-86
スペインスーパーカップ
10回
1984年、1992年、1993年、1995年、1997年、2005年、2006年、2009年、2010年、2011年

その他国際タイトル

UEFAカップウィナーズカップ
4回
1978-79、1981-82、1988-89、1996-97
UEFAスーパーカップ
4回
1992年、1997年、2009年、2011年
ラテン・カップ
2回
1949年、1952年
インターシティーズ・フェアーズカップ
3回
1955-58、1958-60、1965-66
トロフェウ・ジョアン・ガンペール:34回
1966年、1967年、1968年、1969年、1971年、1973年、1974年、1975年、1976, 1977年、1979年、1980年、1983年、1984年、1985年、1986年、1988年、1990年、1991年、1992年、1993年、1994年、1995年、1996年、1997年、1998年、1999年、2001年、2002年、2003年、2004年、2006年、2007年、2008年
トロフェオ・テレサ・エレーラ:5回
1948年、1951年、1972年、1990年、1993年
アムステルダム・トーナメント:1回
2000年
トロフェオ・ラモン・デ・カランサ:3回
1961年、1962年、2005年

個人タイトル

(全て、FCバルセロナ所属またはFCバルセロナ内最多記録)

歴代バロンドール受賞選手

歴代FIFA最優秀選手賞受賞選手

歴代FIFAバロンドール受賞選手

歴代リーガ・エスパニョーラ得点王

氏名 国籍 シーズン 得点 試合数 平均得点
マリアーノ・マルティン   スペイン 1942-43 32 23 1.39
セサール・ロドリゲス   スペイン 1948-49 28 24 1.16
カジェタノ・レー   パラグアイ 1964-65 25 30 0.83
カルロス・レシャック   スペイン 1970-71 17 28 0.60
ハンス・クランクル   オーストリア 1978-79 29 30 0.96
キニ   スペイン 1980-81 20 30 0.66
キニ   スペイン 1981-82 26 32 0.81
ロマーリオ   ブラジル 1993-94 30 33 0.90
ロナウド   ブラジル 1996-97 34 37 0.91
サミュエル・エトー   カメルーン 2005-06 26 35 0.74
リオネル・メッシ   アルゼンチン 2009-10 34 35 0.97

歴代サモラ賞受賞者

氏名 国籍 シーズン 被得点 試合数 失点率
ジョアン・ヴェラスコ   スペイン 1947-48 31 26 1.19
アントニ・ラマレッツ   スペイン 1951-52 40 28 1.42
アントニ・ラマレッツ   スペイン 1955-56 24 29 0.83
アントニ・ラマレッツ   スペイン 1956-57 35 29 1.20
アントニ・ラマレッツ   スペイン 1958-59 22 28 0.78
アントニ・ラマレッツ   スペイン 1959-60 24 27 0.88
ホセ・マニュエル・ペスド   スペイン 1965-66 15 22 0.68
サルバドール・サルドゥニ   スペイン 1968-69 18 30 0.60
ミゲル・レイナ   スペイン 1972-73 21 34 0.62
サルバドール・サルドゥニ   スペイン 1973-74 22 30 0.73
サルバドール・サルドゥニ   スペイン 1974-75 19 24 0.79
ペドロ・マリア・アルトーラ   スペイン 1977-78 25 29 0.86
フランセスコ・ウルッティ   スペイン 1983-84 26 32 0.81
アンドニ・スビサレッタ   スペイン 1986-87 29 43 0.67
ビクトール・バルデス   スペイン 2004-05 25 35 0.71
ビクトール・バルデス   スペイン 2008-09 31 35 0.89
ビクトール・バルデス   スペイン 2009-10 24 38 0.63
ビクトール・バルデス   スペイン 2010-11 16 32 0.50

その他個人記録

通算最多得点:パウリノ・アルカンタラ(1912-1927)
357試合357ゴール(親善試合215ゴール、国王杯5ゴール、カタルーニャリーグ98ゴール、スペインリーグ35ゴール、ピレネーカップ3ゴール、バルセロナカップ1ゴール)
1シーズン最多得点:クレメンテ・グラシア(1921-22)
50試合59ゴール(親善試合35ゴール、カタルーニャリーグ19ゴール、スペインリーグ5ゴール)
リーガ・エスパニョーラ通算最多得点:セサール・ロドリゲス(1942-1955)
195ゴール
リーガ・エスパニョーラ連続得点:マリアーノ・マルティン(1942-43[18]
連続10試合18ゴール
国際大会最多得点:リオネル・メッシ(2005-)
32ゴール
1試合最多得点ハンス・カンパー
9得点(計3回)
1901年2月10日 マヤカカップ 対フランコエスパニョール戦 (エスパニョール0-FCバルセロナ13)
1901年3月17日 マヤカカップ 対タラゴナ戦 (タラゴナ0-FCバルセロナ18)
1903年2月1日 バルセロナカップ (対戦相手不明、FCバルセロナがホームで13-0の勝利)
サモラ賞最多受賞:アントニ・ラマレッツ
5回(1951-52、1955-56、1956-57、1958-59、1959-1960)
最長無失点:ミゲル・レイナ(1972-73)
824分(リーガ・エスパニョーラ第14節の53分から第23節の67分まで)
最多出場:チャビ・エルナンデス(1998-[19]
通算550試合
国際大会最多出場:チャビ・エルナンデス(1998-[20]
通算86試合出場(チャンピオンズリーグ70試合、UEFAカップ13試合、欧州スーパーカップ1試合、クラブワールドカップ2試合)
最年少トップチームデビュー:パウリノ・アルカンタラ
15歳4ヶ月18日(1912年2月25日 カタルーニャリーグ 対カタルSC戦)
最年少得点:パウリノ・アルカンタラ
15歳4ヶ月18日(1912年2月25日 カタルーニャリーグ 対カタルSC戦で3得点。 (FCバルセロナ9 - カタルSC0)
リーガ・エスパニョーラ最年少得点:ボージャン・クルキック
17歳2ヶ月(2007年10月20日 リーガ・エスパニョーラ第8節ビジャレアルCF戦)
最長在任監督:ジャック・グリーンウェル
通算9年間 (1917-1924,1931-1933)
連続最長在任監督:ヨハン・クライフ
8年間 (1988-1996)

歴代スタジアム

歴代所属選手

カンテラ出身選手は、公式戦でのトップチーム・デビュー年度から表記)

GK


DF


MF


FW


脚注

  1. ^ フォーブスによるバルセロナの資産価値は10億ドル(約850億円) (2010年4月公表)
  2. ^ FCBarcelona.cat”. FCBarcelona.cat. 2009年1月21日閲覧。
  3. ^ モウリーニョの策にバルサが完敗。世界最高の頭脳は何を考えたのか? -NumberWeb: 2010年4月21日
  4. ^ ついに発見されたバルサ攻略の公式。モウリーニョが作り上げた戦術を解く。 -NumberWeb: 2010年4月30日
  5. ^ [http://number.bunshun.jp/articles/-/24023 圧倒的な強さで連覇を達成しても、 バルサの攻撃サッカーは発展途上。] -NumberWeb: 2010年5月19日
  6. ^ 翌年には完全移籍可能のオプション付きであり、その後完全移籍することとなった。
  7. ^ モウリーニョとレアルを完全凌駕した、グアルディオラとバルサの戦術と能力。 -NumberWeb: 2011年4月28日
  8. ^ レアルの敵はバルサ+疑惑の判定!?激闘のクラシコ最終戦を読み解く。 -NumberWeb: 2011年5月5日
  9. ^ 「熟成」のマンUと「進化」のバルサ。2年前とは似て非なるCL決勝の風景。 -NumberWeb: 2011年5月28日
  10. ^ バルサ4度目のCL制覇を陰で支えた、プジョルとアビダルの見えない功績。 -NumberWeb: 2011年5月30日
  11. ^ 最新トレンドは「ポジションレス」!? CL決勝にみる、バルサ究極の進化形。 -NumberWeb: 2011年6月12日
  12. ^ なお、1989年のレアル・マドリードは1988-89シーズンのリーガ・エスパニョーラ優勝及びコパ・デル・レイ優勝の2冠を達成したことで優勝を認定されたため、3年とも試合を行っての3連覇は史上初である。
  13. ^ 2007年までバルサCが存在していたが、バルサB(当時)のテルセーラ・ディビシオン降格にともない、消滅した。
  14. ^ 1955-1956シーズンから1970-1971シーズンまではインターシティーズ・フェアーズカップ、1971-1972シーズンから2008-2009シーズンまではUEFAカップ、2009-2010シーズン以降はUEFAヨーロッパリーグ
  15. ^ a b 1909-1910シーズン、1912-13シーズンはスペインサッカー連盟主催の大会とスペインサッカークラブ連合主催の大会が並存しており、FCバルセロナが優勝したのはスペインサッカークラブ連合の大会
  16. ^ うち2回はスペインサッカークラブ連合主催
  17. ^ ただし、全てUEFAカップの前身となったインターシティーズ・フェアーズカップ
  18. ^ 1942-1943シーズン第19節(1943年2月14日)から1943-1944シーズン第2節(1943年10月3日)まで。
  19. ^ 2011年1月5日現在
  20. ^ 2007年12月12日現在

関連項目

外部リンク


座標: 北緯41度22分32秒 東経2度3分7秒 / 北緯41.37556度 東経2.05194度 / 41.37556; 2.05194

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