ハービー・ニコルス
ハービー・ニコルス(Herbie Nichols, 1919年1月3日 ニューヨーク・シティ – 1963年4月12日 ニューヨーク・シティ)はアメリカ合衆国のジャズ・ピアニスト。作曲家としても名高く、ジャズのスタンダード《レディ・シングス・ザ・ブルース》は代表作の一つである。生前は有名ではなかったが、歿後に多くのミュージシャンや評論家から高い評価を受けるようになった。
ハービー・ニコルス | |
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生誕 | 1919年1月3日 |
出身地 | アメリカ合衆国ニューヨーク・シティ マンハッタンサンファン・ヒル地区 |
死没 | 1963年4月12日(44歳没) |
担当楽器 | ピアノ |
略歴
セントクリストファー島出身者とトリニダード島出身者を両親にマンハッタンのサンファン・ヒル地区に生まれ、ハーレムに育つ[1]。知られている限りで最初の活動は、1937年にロイヤル・バロンズとの共演に遡るが、ニコルスは数年後のミントンズ・プレイハウスにおけるジャム・セッションをあまり楽しい経験とは認めていない。その場の張り合うような空気がニコルスの気性とは相容れなかったためである。ただしピアニスト仲間のセロニアス・モンクと親交を結んではいるものの、モンクにはっきりと軽視されたことは一層こたえたようである。
1941年に徴兵されて歩兵連隊に入隊する。戦後はさまざまな曲付けを手懸けるようになり、1952年にメアリー・ルー・ウィリアムズがニコルスの曲をいくつか録音する頃には、そこそこ名前が知られるようになっていた[2]。ニコルスは1947年から、アルフレッド・ライオンに、ブルー・ノート・レーベルとの契約をしつこく哀願しており[3]、ついに1955年と1956年にブルー・ノートで3枚のアルバムを制作した。これらのセッションのアウトテイクは、1980年代まで発表されなかった。ニコルスの《セレナーデ》は歌詞が付けられ、《レディ・シングス・ザ・ブルース》として、ビリー・ホリデイの代名詞となった。1957年には、最後のアルバムをベスレヘム・レコードで制作している。以上の音源は全てニコルスがリーダーを務めたもので、CD化もされている。
1963年に白血病のため亡くなった。
後世への影響
生涯の大半をディキシーランド・ジャズのミュージシャンとして活動せざるを得なかったが、本人はより実験的な種類のジャズを演奏することを好んだ[4]。ディキシーランドにビバップ様式や、西インド諸島の民俗音楽、エリック・サティやベラ・バルトークに影響されたハーモニーを組み合せた、きわめて独創的な標題音楽によって、こんにちでは特に高い評価を得ている。
ニコルスの楽曲は、昨今ロズウェル・ラッドによって精力的に紹介されるようになった。ラッドは1960年代にニコルスと共演したことがあり、近年少なくとも3枚のアルバムでニコルスの楽曲を録音し、あるいは特集している[5]。1984年にスティーヴ・レイシー・クィンテットは、1984年のラヴェンナ・ジャズ・フェスティヴァルにおいて、ジョージ・ルイスやミシャ・メンゲルベルク、ハン・ベニンク、アリエン・ゴルターとともに、ニコルスの作品を上演した[6] 。ニューヨークのグループ「ハービー・ニコルス・プロジェクト」は、録音されたことのない(その多くは米国議会図書館にニコルスが寄贈した)楽譜を集めて、これまでに3枚のアルバムを録音している[7]。
註釈
- ^ Spellman, A.B. (1985). Four Lives in the Bebop Business. Limelight Editions. pp. 156, 174. ISBN 0-87910-042-7
- ^ Spellman, p165
- ^ Spellman, p168
- ^ Spellman, pp 155-156
- ^ Kelsey, Chris. “Rosswell Rudd Biography”. Allmusic. 2008年11月29日閲覧。
- ^ Layne, Joslyn. “Misha Mengelberg Biography”. Allmusic. 2008年11月29日閲覧。
- ^ Corroto, Mark (2001年11月1日). “Strange City: The Herbie Nichols Project”. All About Jazz. 2008年11月29日閲覧。