トランスヴァール共和国
- 南アフリカーンス共和国
- Zuid-Afrikaansche Republiek
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← 1852年 - 1902年 → (国旗) (国章) - 国歌: トランスヴァールの国歌
トランスヴァール共和国の位置-
公用語 オランダ語 首都 プレトリア - 大統領
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1857年 - 1860年 マルティヌス・プレトリウス - 変遷
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サンド・リバー協定 1852年 第二次ボーア戦争の勃発 1899年10月11日 フェリーニヒング条約 1902年5月31日
時間帯 UTC +2(DST: なし)
トランスヴァール共和国(トランスヴァールきょうわこく)は、20世紀初めまでヴァール川北方(現在の南アフリカ共和国北部)に存在した共和国。1852年にボーア人が建国した。首都はプレトリア。なお「トランスヴァール共和国」は通称で、正式名称は南アフリカーンス共和国(みなみアフリカーンスきょうわこく、アフリカーンス語: Zuid-Afrikaansche Republiek)である。また「ヴァール」「トランスヴァール」は英語読みで、アフリカーンス語では、それぞれ「ファール」「トランスファール」と発音する。
歴史
成立までの経緯
1830年代より、イギリス領ケープ植民地のオランダ系移民(ボーア人)が、イギリス統治への反発などから、内陸への集団移動を開始させた(グレート・トレック)。その結果、ヴァール川の北方(トランスヴァール)にボーア人が拠点を築くことになった。ケープ植民地との武力闘争を経て、1852年にサンド・リバー協定が成立し、トランスヴァール共和国が成立した。
成立当初
独立後の課題の一つに、内陸国で海への出口を持たないことがあった。そのためデラゴア湾周辺に勢力拡大を図ったが、これはイギリスの反対にあって実現しなかった。この一件を背景として、初代大統領のマルティヌス・プレトリウスは失脚に追い込まれた。1877年、一時的にイギリスによって併合されるが、ボーア人は抵抗を続け1881年のプレトリア協定で独立を回復させた(このことを第一次ボーア戦争と称し、1899年から1902年にかけての戦争を第二次ボーア戦争と称することもある)。
金鉱発見と繁栄
1886年、豊富な金の鉱脈がヨハネスブルグの近郊で発見されたことが、トランスヴァール共和国にとって大きな転機となった。財政難に陥っていたため国家による大規模な開発は困難だったが、多くの企業を誘致し地代を負担させることで大きな利益を上げた。これに伴って交通網の整備も進み、1894年にはポルトガル領東アフリカ(現在のモザンビーク)の港湾都市ロレンソ・マルケス(現在のマプート)に至る鉄道が開通した。また、翌年にはナタールのダーバンとも鉄道で結ばれた。
ボーア戦争とその後
しかし、こうした急速な繁栄は、当初よりトランスヴァール進出を企図していたイギリスの帝国主義的野心を強めさせることになった。1895年の「ジェームソン侵入事件」はその一例であり、ついに1899年よりイギリスの帝国主義的侵略戦争であるボーア戦争が開始された。ボーア人は各地でゲリラ的抵抗を続けイギリスを苦しめたが、1902年に敗戦するとイギリスの「直轄植民地」とされた。これによりトランスヴァール共和国は滅亡した。戦争中、金の生産量は10分の1以下にまで低下したほか、焦土戦術に伴う農地の荒廃もひどく、トランスヴァール経済に大きな打撃を与えた。
しかし、イギリスはボーア人との関係改善を図り、1905年にはボーア人農民を勢力基盤とする人民党の成立を認めた。1906年に自治政府が樹立され、1910年に成立した南アフリカ連邦を構成する州の一つとなった。短期間で経済復興も進められ、鉄道網もさらに整備された。