菊池義武

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菊池 義武きくち よしたけ永正2年(1505年) - 天文23年11月20日1554年12月14日))は日本の戦国時代の武将で、大友義長の子で大友義鑑の弟。初名は大友重治。子に菊池高鑑菊池則直

1511年菊池氏当主で阿蘇氏出身の菊池武経が菊池氏内部の権力闘争に嫌気が差し、矢部に逃亡。1513年、阿蘇氏の家督を弟の阿蘇惟豊から奪還した。
大友氏当主の大友義鑑肥後に勢力を拡大するため、肥後に大きな影響力を持つ菊池氏の乗っ取りを目論み、武経の跡をまずは菊池武包に継がせ、弟・重治の成長後に菊池氏の家督を継がせる密約を結んだ。
1520年に菊池氏当主の座は義鑑の弟である大友重治が継いだ。しかし、菊池義武と改名した重治は大内義隆相良氏と同盟を結んで兄に反抗し、戦国大名として独立してしまう。
兄と不仲だったのが原因なのか、それとも自身の野心のためか、菊池氏再興を願った為か、明確な理由は不明であるが、義武が大友氏当主に未練があったこと、筑後領有という領土的野心があったことが原因だと思われる。

しかし義鑑との争いには敗れ、結局相良氏を頼って落ち延びた。1550年に兄が「二階崩れの変」で死去すると、再び領地を奪還したが、1554年に甥である大友義鎮の帰国の誘いに乗りったところ、兵を送られ、帰国途上で自害を余儀なくされた。
菊池義武の死により肥後の名門菊池氏は滅亡したのである。

その後

義武以前の菊池氏当主である菊池能運宇土為光の謀叛で肥後を追われた際に、家族を弟・重房に預け、日向国米良谷に逃亡した。能運の子は米良で成長したが後難を恐れ、菊池姓を隠し、米良重次重為)と称し、米良に土着した。
その後、米良の領主として伊東氏と結んだり、相良氏と結んだり、勇猛かつ政略にも長けた地方豪族として勢力を拡大し、子孫は代々大名並の扱いを受け幕末に至った。明治維新後、菊池武臣の代に男爵を授けられ華族に列している。大名としては滅亡した名門菊池氏ではあるが、その流れを現代に伝えている。

先代
菊池武包
肥後菊池氏歴代当主
1520~1554
次代