上知令

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上知令(じょうちれい、あげちれい)は、1840年代から1870年代にかけて、江戸幕府明治政府が出した土地没収の命令。上地令と表記する場合もある。

江戸幕府

天保の改革を主導した老中首座水野忠邦は、アヘン戦争清国イギリスに敗れ、また日本近海にも外国船がしばしば出没する状況にてらし、将来、日本にも外国が攻めてくることもありうるとみていた。特に江戸は政治の中心地、大坂は経済の中心地であるから、江戸、大坂近海に外国船が来襲した際の危機管理の重要性が課題となる。

これまで江戸・大坂十里四方は、幕府領(天領)、大名領、旗本領が入り組んでいた。そこで大名、旗本には十里四方に該当する領地を幕府に返上させ、かわりに、大名・旗本の本領の付近で替え地を幕府から支給するという命令を出し、江戸・大坂十里四方を幕府が一元的に管理する方針を固め1843年天保14年)6月1日、上知令が発布された。なお、庄内藩長岡藩川越藩の間で検討されていた「三方領知替え」も、この上知令の一環で検討されていたものだった。

しかし、江戸大坂十里四方に領地を持つ大名旗本から反対が起こる。

例えば、水野忠邦の同僚で老中土井利位は本領は下総国古河藩であったが、河内国摂津国にも飛び地を持っていた。土井家は河内、摂津の農民に借金があり、農民達は上知と同時に借金が踏み倒されるのではと恐れ、土井家に繰り返し上知反対の強訴が発生した。また、御三家紀州藩からも反対が発生した。

反対派は土井利位を盟主に担いで上知令撤回と、水野忠邦の老中免職に動き出し、水野忠邦の主だった腹心達(町奉行鳥居耀蔵勘定奉行榊原忠職)らも土井派に寝返り、鳥居に至っては忠邦の機密資料を残らず土井に流すという徹底ぶりであった。

結局閏9月7日、忠邦が欠席のまま土井利位から上知令撤回の幕命が出され、閏9月13日、忠邦は老中免職となり、上知令ともども天保の改革は終焉した。

明治政府

江戸時代に認められていた寺院神社の領地(寺社領)が1871年明治4年)と1875年(明治8年)の2回の上知令により没収された。この背景には廃藩置県に伴い、寺社領を与える主体であった領主権力が消滅したために寺社領の法的根拠も失われたこと、地租改正によって全ての土地に地租を賦課する原則を打ち立てるために寺社領を含めた全ての土地に対する免税特権を破棄することを目的としていた。なお、同様の趣旨をもってえた非人とされた人々の所有地である「穢地」の免税特権破棄も解放令と同時に行われている。