馮桂芬

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馮 桂芬(ふう けいふん、1809年1874年)は、中国朝末期の政治家学者を林一、景亭と号す。9代皇帝・咸豊帝及び10代皇帝同治帝時代に仕え、早い時期から洋務運動推進を唱えたひとり。兵法や書に優れた。『顕志堂稿』などを著す。

馮桂芬

江蘇省、呉県に生まれた。31歳のとき進士となる。はじめ翰林院編修などの役職にあったものの父の死で帰郷。そのまましばらく晴耕雨読の日々を過ごしていた。だが、咸豊帝即位まもなく、太平天国との戦火が著しくなると、蘇州を死守するため自ら赴き一団を募ってこれと抗戦した。しかし蘇州は陥落。その後は上海に落ち延び、そこで曾国藩の傘下となり防衛を続けた。上海での戦いで太平天国の軍勢を撃退すると蘇州も取り戻し、再び学問の研究に没頭し表舞台から退く決心をする。だが優れた智謀を聞きつけた李鴻章に招かれて陪臣として仕え同治年間の清朝の初期改革の半ばを献策。科学技術、兵力などの強化に貢献した。西太后の信任も厚く周囲の人望もあったが、病に倒れ没した。彼の残した発想は、張之洞らに受け継がれ完成を見る。