徳仁
皇太子徳仁親王(こうたいし なるひとしんのう、1960年(昭和35年)2月23日 - )は、日本の皇族。今上天皇の第一皇子。母は皇后美智子。御称号は浩宮(ひろのみや)。身位は皇太子、親王。皇室典範に定める敬称は殿下。お印は梓(あずさ)。勲等は大勲位。学位は人文科学修士(学習院大学・1988年)。その他、名誉学位・称号として名誉法学博士(ケンブリッジ大学)などがある。皇位継承順位第1位。
徳仁親王 | |
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日本の皇太子 | |
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続柄 | 今上天皇第一皇子 |
称号 | 浩宮(ひろのみや) |
身位 | 皇太子、親王 |
敬称 |
殿下 His Imperial Highness |
お印 | 梓 |
出生 |
1960年2月23日(64歳)![]() |
配偶者 | 皇太子徳仁親王妃雅子 |
子女 | 敬宮愛子内親王 |
父親 | 今上天皇 |
母親 | 皇后美智子 |
役職 |
日本赤十字社名誉副総裁 国際連合「水と衛生に関する諮問委員会」名誉総裁 学習院大学史料館客員研究員 他 |
皇室 |
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人物
1989年(昭和64年)に父・明仁親王の皇位継承に伴い皇太子となり、1991年(平成3年)には立太子の礼が執り行われた。皇太子となって以降、国会・政府の用いる正式表記では皇太子を冠し「皇太子徳仁親王」とされる。
1993年(平成5年)に小和田雅子と結婚の儀を挙げ、2001年(平成13年)に長女・敬宮愛子内親王をもうけた。
2005年(平成17年)に愛知県で開催された日本国際博覧会(愛知万博、通称「愛・地球博」)では、名誉総裁を務めた。
2007年(平成19年)より国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。英語での講演を、スペイン、トルコ、アメリカなどで開かれたフォーラムおよびシンポジウムで行っている[1]。
1987年(昭和62年)より現在まで、20回、天皇陛下の海外訪問の期間または病気療養の期間、天皇から委任を受け国事行為を臨時代行している。
男性皇族としては珍しく、歴史学(主に交通史・流通史)を専門とする。またヴィオラ演奏・登山・ジョギングを趣味とし、国民にもその姿をたびたび披露している[2][3]。
略歴
皇孫時代
1960年(昭和35年)2月23日、皇太子明仁親王と同妃美智子(いずれも当時)の第一子として、東京都千代田区の宮内庁病院で誕生した。
懐妊に際しては母子手帳が発行され、皇居宮殿内の御産殿で出産を行わないなど、それまでの皇室の慣例によらない、戦後初の内廷皇族の親王誕生は、広く国民に注目された。同年2月29日に命名の儀において祖父・昭和天皇が浩宮徳仁(ひろのみや なるひと)と命名した[4]。「浩宮」の称号は四書五経のうちの『中庸』第32章にある「浩々たる天」、「徳仁」の名は同じく「聡明聖知にして天徳に達する者」を典拠とする。
皇太子夫妻による子育ても、国民の関心の的となった。中でも、生後7ヶ月の徳仁親王から離れて夫妻が14日間の公務訪米旅行の際に、皇太子妃が世話係へ書き置いた育児メモ「ナルちゃん憲法」は、子供を預けて働く母親たちの子育て指針としても共感を呼んだ。
夫妻は、専任の養育係を置かず、子育てを行った。ただし、東宮侍従の濱尾実が、徳仁親王が1歳3ヶ月の時から初等科5年生まで、専任の養育係に準ずる存在として養育および教育に貢献している。徳仁親王は濱尾実を「オーちゃん」と呼び、濱尾家の子ども達とも親しく遊んでいた[5]。両親の下で、弟・礼宮文仁親王、妹・紀宮清子内親王とともに育つ徳仁親王たちの様子は、報道を通じてしばしば公表され、一般国民の感覚に近い戦後の幸せな家庭像を描くとともに、新しい皇室像の形成にも大きく寄与した。
徳仁親王は、幼稚園から大学まで学習院で学んだ。学習院高等科時代は、正規の授業のほか、御所におけるご進講の形で「歴代天皇の御事跡」や古事記、日本書紀、万葉集、平家物語から比較神話学、文化史、文化人類学、時事問題などを幅広く学んだ。“帝王学”の一環と考えられる[6]。学習院大学では音楽部に所属しヴィオラを担当した。在学中の1980年(昭和55年)2月23日、満20歳で成年式を執り行った。
1982年(昭和57年)3月に学習院大学文学部史学科を卒業した(文学士)。その後、同大学大学院人文科学研究科博士前期課程に進学。それまでの皇族が、生物学を中心とした自然科学を専攻したのに対して、徳仁親王は史学、中世の交通史・流通史という人文科学・社会科学に近い分野を専攻した。
1983年(昭和58年)から1985年(昭和60年)にかけて、オックスフォード大学マートン・カレッジに留学して、テムズ川の水運史について研究[7]。1988年(昭和63年)には、学習院大学大学院人文科学研究科の博士前期課程を修了した(人文科学修士)。この間、1987年(昭和62年)10月3日から10月10日には、昭和天皇の病気療養と皇太子明仁親王の外国訪問が重なり、初めて国事行為臨時代行に就いた。
昭和時代の末より、親王妃候補について様々な憶測が報道されるようになり、1986年(昭和61年)10月18日、来日中のスペイン王女の歓迎パーティーに出席した際、外務省に勤める小和田雅子と知り合う(後述→#結婚までの経緯)。
皇太子時代
1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇崩御を受け皇太子明仁親王が即位した。これに伴い、皇位継承順位が1位となり、徳仁親王は事実上の皇太子となった。また、それまで家族と同居していたがこれを機に別居、独立した。
今上天皇の即位の礼などを経て、1991年(平成3年)2月23日、満31歳となった日に立太子の礼が執り行われた。また同日、皇太子の印とされる「壺切御剣」を今上天皇から親授された。
1993年(平成5年)1月19日、皇室会議において婚姻の相手に小和田雅子を内定。同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
8年後の2001年(平成13年)12月1日、雅子妃との間に長女・敬宮愛子内親王が誕生した。
皇太子となってからは、たびたび外国を訪問し、皇室外交の進展を図っている。また、公務の傍ら1991年(平成3年)9月には、ケンブリッジ大学から名誉法学博士号を授与されている。そして1992年(平成4年)4月からは学習院大学史料館客員研究員の委嘱を受け、日本中世史の研究を続けている。学習院女子大学国際文化交流学部の授業では、「北米文化の源流・イギリスの社会と文化」や「オックスフォードにおける学生生活」について講義を行い、名誉総裁として臨席した世界水フォーラムの開会式では、「京都と地方を結ぶ水の道」や「江戸と水運」と題した講演を行なっている。
2004年(平成16年)5月10日、欧州3か国歴訪を前にした会見内で「雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」と発言した(いわゆる人格否定発言)。同発言は、皇太子一家と皇室・宮内庁の間に不和があることを浮き彫りにし、大きな反響を呼んだ。同年7月に雅子妃が療養している事実が正式に発表され、以後徳仁親王は単独で公務・祭祀を行うことがほとんどとなった。
2007年(平成19年)3月27日、定期健康診断で十二指腸にポリープが発見された。同年5月には良性と診断されたが、同年6月6日に十二指腸ポリープの内視鏡による切除手術を東京都文京区の東京大学医学部附属病院で受けた。同年11月1日、国連「水と衛生に関する諮問委員会」の名誉総裁に就任。日本の皇族が国連などの常設の国際機関の役職に就くのは初である[8]。
2013年(平成25年)3月6日、ニューヨークの国連本部で開かれた「水と災害に関する特別会合」で、英語で基調講演を行った。同会合は、東日本大震災など世界的な水災害の増加を受け国連で初めて開催された会合である[9]。
年譜
- 1960年(昭和35年)2月23日 - 宮内庁病院にて誕生
- 1964年(昭和39年)10月29日(4歳) - 着袴の儀
- 1980年(昭和55年)2月23日(20歳) - 成年式(皇居宮殿・春秋の間)
- 1982年(昭和57年)3月(22歳) - 学習院大学文学部史学科を卒業(文学士)
- 同年4月 - 学習院大学大学院に入学。専攻は史学・中世の交通・流通史。
- 1988年(昭和63年) - 学習院大学大学院人文科学研究科博士前期課程を修了(人文科学修士)
- 1991年(平成3年)2月23日(31歳) - 立太子の礼(皇居宮殿・松の間)。壺切御剣親授(皇居宮殿・表御座所・鳳凰の間)。
- 1993年(平成5年)1月19日(32歳) - 皇室会議にて、妃に小和田雅子が内定。
- 同年4月12日 - 納采の儀(小和田邸)
- 同年6月9日 - 結婚の儀(宮中三殿・賢所)
- 2001年(平成13年)12月1日(41歳) - 第一女子・敬宮愛子内親王が誕生。
外遊歴
昭和時代
平成年間
- 1989年(平成元年)
- 1990年(平成2年)
- 1991年(平成3年)
- 1992年(平成4年)
- 1994年(平成6年)
- 1995年(平成7年)
- 1999年(平成11年)
- 2001年(平成13年)
- 2002年(平成14年)
- 2004年(平成16年)
- 2005年(平成17年)
-
- 8月3日 - 8月4日: サウジアラビア旅行。
- 同年8月1日に崩御したサウジアラビア国王ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズの弔問のため。
- 8月3日 - 8月4日: サウジアラビア旅行。
- 2006年(平成18年)
- 2007年(平成19年)
- 2008年(平成20年)
2008年6月18日、ブラジル:ルーラ大統領と 2010年6月19日、スウェーデン:ヴィクトリア王女の結婚式にて - 2009年(平成21年)
- 2010年(平成22年)
- 2011年(平成23年)
- 2012年(平成24年)
- 2013年(平成25年)
国事行為の臨時代行歴
2013年12月現在、昭和天皇在位中に皇孫として1回、今上天皇即位後に皇太子として20回、天皇から委任を受け国事行為を臨時代行している。
委任を行った天皇 | 委任年月日 | 委任の理由 | 委任の期間 | 委任された事項 | 解除(終了)年月日 | 解除(終了)の理由 | 備考 |
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昭和天皇 | 1987年10月3日 | 病気療養中 皇太子明仁親王外国旅行 |
当分の間 | 全般 | 1987年10月10日 | 皇太子明仁親王帰国 | 皇太子訪問先:アメリカ合衆国 |
今上天皇 | 1991年9月26日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1991年10月6日 | 帰国 | タイ国、マレイシア国及びインドネシア国 |
1992年10月23日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1992年10月28日 | 帰国 | 中華人民共和国 | |
1993年8月6日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1993年8月9日 | 帰国 | ベルギー国 ※故・国王ボードワン一世の国葬参列のため | |
1993年9月3日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1993年9月19日 | 帰国 | イタリア国、ベルギー国及びドイツ国 | |
1994年6月10日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1994年6月26日 | 帰国 | アメリカ合衆国 | |
1994年10月2日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1994年10月14日 | 帰国 | フランス国及びスペイン国(ドイツ国) | |
1997年5月30日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1997年6月13日 | 帰国 | ブラジル国及びアルゼンティン国(ルクセンブルグ国及び米国) | |
1998年5月23日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 1998年6月5日 | 帰国 | 英国及びデンマーク国(ポルトガル国) | |
2000年5月20日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2000年6月1日 | 帰国 | オランダ国及びスウェーデン国(スイス国及びフィンランド国) | |
2002年7月6日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2002年7月20日 | 帰国 | ポーランド国及びハンガリー国(チェッコ国及びオーストリア国) | |
2003年1月16日 | 病気療養 | 当分の間 | 全般 | 2003年2月18日 | 病気快復の状況にかんがみ | ||
2005年5月7日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2005年5月14日 | 帰国 | ノルウェー国(アイルランド国) | |
2005年6月27日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2005年6月28日 | 帰国 | アメリカ合衆国自治領北マリアナ諸島サイパン島 | |
2006年6月8日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2006年6月15日 | 帰国 | シンガポール国及びタイ国(マレーシア国) | |
2007年5月21日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2007年5月30日 | 帰国 | スウェーデン国、エストニア国、ラトビア国、リトアニア国及び英国 | |
2009年7月3日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2009年7月17日 | 帰国 | カナダ国及びアメリカ合衆国 | |
2011年11月7日 | 病気療養 | 当分の間 | 全般 | 2011年12月6日 | 病気快復の状況に鑑み | ||
2012年2月17日 | 病気療養 | 当分の間 | 全般 | 2012年4月10日 | 病気快復の状況に鑑み | ||
2012年5月16日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2012年5月20日 | 帰国 | 英国 | |
2013年11月30日 | 外国旅行 | 外国旅行の間 | 全般 | 2013年12月6日 | 帰国 | インド国 |
- 「委任年月日」は官報に掲載された代行開始期日。
- 備考欄には、委任理由が外国旅行の場合には宮内庁告示で公表された訪問(括弧内は訪問でなく立寄り)先の国名を記載。
子女
雅子妃との間に1子がいる。
- 敬宮愛子内親王(としのみや あいこ:2001年(平成13年) - )
系譜
徳仁親王 | 父: 今上天皇 |
祖父: 昭和天皇 |
曾祖父: 大正天皇 |
曾祖母: 貞明皇后 | |||
祖母: 香淳皇后 |
曾祖父: 邦彦王(久邇宮) | ||
曾祖母: 俔子 | |||
母: 美智子 |
祖父: 正田英三郎 |
曾祖父: 正田貞一郎 | |
曾祖母: 正田きぬ | |||
祖母: 正田富美子 |
曾祖父: 副島網雄 | ||
曾祖母: 副島アヤ |
発言
- 「美しいものを見たときに、それを美しいと評価できる人」
- 「これからはある程度の外国語が話せたほうが良い」
- 「ニューヨークのティファニーに行ってあれやこれや買うような方では困る」
- 以上、1985年(昭和60年)、留学先のイギリスから帰国後の記者会見で、「どのような方を妃として望むか」という質問に対して。
- 「人の心情、悩み、苦しみを推し量って、思いやれる人が良い」
- 以上、1986年(昭和61年)、誕生日記者会見でお妃の理想像を聞かれて。
- 「すぐ手の届くところに中世が存在する」
- 1983年(昭和58年)留学した、オックスフォード大マートンコレッジ 1264年創について。
- 「自分の意見をはっきり述べ、服装も(日本の女性と比べて)気取らず地味なのに感心しました」
- 留学して半年後、昭和58年12月の記者懇談で、英国の女子学生について。
- 「寮の部屋ごと、記念に持って帰りたい心境です」
- 1985年(昭和60年)10月オックスフォード大での留学を終えての感想[12]。
- 「心から祝福いたします。川嶋紀子さんは以前からよく遊びに来ており、妹のような気持ちで接しておりました(中略)弟と紀子さんとは非常によく合うと思います」
- 「川嶋家に色々問い合わせが来て、二人の間が不安定になっているのはよくないということもありました。二人の結婚は私も強く勧めたところです。私についてはマイペースでやっていきたいと考えております」
- 「立太子宣明の儀が行われ、誠に身の引きしまる思いであります。皇太子としての責務の重大さを思い、力を尽くしてその務めを果たしてまいります」
- 1991年(平成3年)2月23日、立太子の礼にて[14]。
- 「皇室に入られるということには、いろいろな不安や心配がおありでしょうけれども、雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」
- 1992年(平成4年)11月後半に交際中の雅子にかけた言葉、婚約内定の記者会見にて雅子妃が披露した[15]。
- 「外交官としての雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」[16]
- 2004年(平成16年)、訪欧前の記者会見で。いわゆる人格否定発言。
- 「皇室典範に関する有識者会議が最終報告書を提出したこと、そしてその内容については、私も承知しています。親としていろいろと考えることもありますが、それ以上の発言は控えたいと思います」[17]
- 2006年(平成18年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、皇室典範改正問題についての質問に対して。
- 「昨年9月の悠仁親王の誕生を心から喜ばしく思います。御所で、また、秋篠宮邸で、そしてまた、この赤坂御用地を弟夫妻が散歩で連れている折などに会うことがありますけれども、健やかに成長しているようで嬉しく思っております」[18]
- 2007年(平成19年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、悠仁親王誕生についての質問に対して。
- 「両陛下のこれまでの歩みについては、常に深くご尊敬申し上げており、両陛下のご活動の一つ一つから多くを学んでまいりました」
- 2009年(平成21年)2月20日、誕生日に際する記者会見にて、今上天皇、皇后のこれまでの歩みについての質問に対して[19]。
- 「花園天皇の言われる『学問』とは、単に博学になるということだけではなくて、人間として学ぶべき動議や礼儀も含めての意味で使われた言葉です。私も五十歳になって改めて学ぶことの大切さを認識しています」
- 2010年(平成22年)2月、誕生日に際する記者会見にて「誠太子書」に言及して。[20]。
- 「若い世代が国の内外で自信を持って活躍し、女性・高齢者・障害者を含め全ての人々が、社会に積極的に参画できるような活力のある社会を構築するために、(中略)私自身、今年も、国の内外で若者やボランティアの方々など多くの方にお会いしたいと思っています」
- 2013年(平成25年)2月21日、誕生日に際する記者会見にて、前年6月に20年ぶりに開催された「国連持続可能な開発会議」に言及して[21]。
- 「過去の天皇が歩んでこられた道と、そしてまた、天皇は日本国、そして国民統合の象徴であるとの日本国憲法の規定に思いを致して、国民と苦楽を共にしながら、国民の幸せを願い、象徴とはどうあるべきか、その望ましい在り方を求め続けるということが大切であると思います。同時に、これまで行われてきている公務を踏まえつつ、将来にわたり生じる日本社会の変化に応じて、公務に対する社会の要請に応えていくことが、重要であると考えております。私としても、常に学ぶ姿勢を忘れずに、他人への思いやりの心を大切にしながら、世の中のためにできることを心掛けてやっていきたいと思っております」
- 同記者会見にて、将来天皇となる立場から、公務をどのようなものと考えているのかという質問に対して。
- 「私、それから秋篠宮が折に触れて、陛下の所で、陛下のご意見を伺ったり、あるいはいろいろな意見交換をするということは、非常に私自身も大切なことだと思いますし、私自身も大変有意義な一時を過ごさせていただいております。陛下と折に触れてご質問の象徴天皇の在り方について、具体的にどういうことを話しているかは申し上げられませんけれども、陛下ご自身がいろいろ思われていること、あるいは体験されてきたことなどをお話しくださるので、私としても本当にいろいろと参考にさせていただいておりますし、大変有り難いことだと思っております」
- 同記者会見にて、御所での今上天皇と皇太子徳仁親王と秋篠宮文仁親王との懇談についての質問に対して
逸話
人物に関するもの
- 幼少時(2歳頃)の徳仁親王は、身体は活発だが器用な方ではなかった。しかし、何事にも非常に粘り強く頑張る性格で服のボタン留めなども丁寧にやりとげていた。幼稚園時代、自転車をマスターする時にも、倒れて涙を見せても自分の力で立ち上がり自転車を起こしていた。しかし、4歳の時、なぜ自分には苗字がないのかと寂しそうに訪ねた。7歳の時には自分の立場を自覚し、一人で歓迎の人達に向かって挨拶をした。「男の子は泣くものではありません」としつけられていたため、弟の文仁親王が生まれベビーベッドで泣いていたとき「アーヤは赤ちゃんだから泣いてもいいんだよね」と言ってかばった[22]。
- 趣味はスポーツと音楽を中心に幅広く、特に日本各地の登山とヴィオラの演奏はしばしば国民の目をひく。登山に関しては、登山専門誌『岳人』や『山と渓谷』などに、幾度かエッセイも寄稿している。このエッセイでは、父と山に登ったときの思い出なども書かれ、文中では一般の敬語の原則に従い、天皇を「父」、皇后を「母」と呼んだ。登山のほかにはテニスとジョギングを好む。普段は赤坂御用地内を走っているが、皇居を周回するジョギングコースで市民ランナーとともに走ったことが過去に3回ある。2007年は約10km(2周)を51分前後で走破し、その健脚ぶりを披露している。
- ヴィオラは、友人知人や演奏家を招いた際などに私邸で演奏するほか、学習院OB演奏会のオーケストラなどで演奏することもある。元来ヴァイオリンを弾いていたが、学習院大学入学を機にヴィオラに転じた。
- 皇太子になる前には、歌手の柏原芳恵のコンサートに赴いたこともある。1986年(昭和61年)10月19日、新宿東京厚生年金会館でのコンサートに行き話題となる。出迎えた柏原がレコードと写真集をプレゼント。そのお礼に彼女にオレンジ色のバラを贈っている。(父皇太子明仁親王邸である)東宮御所に咲く(エリザベス女王が皇太子妃美智子に送ったバラ)「プリンセス・ミチコ」であった。カラオケで柏原の曲「ハロー・グッバイ」を歌う事もあった。
- 小学生の頃は読売ジャイアンツのファンで、そのユニフォームを着て野球に興じる姿を映した映像も残っている。プロ野球の末次利光選手を贔屓にしていたという。しかし、解説者に尋ねられた際には末次の名を失念し、「38番のひと」と背番号で答えた。1988年(昭和63年)の夏の甲子園の第70回全国高等学校野球選手権大会では開会式後の始球式を務めた[23]この大会については良い思い出として記憶していると語っていたことが雑誌記事に掲載され、21年後の2009年(平成21年)夏の甲子園の第91回全国高等学校野球選手権大会では開会式に出席し、お言葉を読み上げた。
- 阪神・淡路大震災に際しては被災者を見舞い、「春になればいいことがありますよ」と言葉をかけたと伝わる。地震の発生メカニズムについても興味を示し、地震研究所を訪問したと伝わる。この直前にはクウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダンを外遊中であり、外遊を継続する予定であったが、外遊先ヨルダンのフセイン国王の勧めで急遽予定を切り上げ、帰国した。ハーシミーヤ宮殿で会見し「訪問の約束は果たさなければと思っていましたが、はざまで難しかった」と語っている。その後、2010年(平成22年)までに、 阪神・淡路大震災被災地訪問を12回行い[24]、15周年の追悼式典には療養中の雅子妃を伴って訪れた[25]。
- 2009年(平成21年)11月には学習院において中国人民解放軍総政治部歌舞団の中国歌劇「木蘭詩篇」公演を観劇し、観劇後、関係者と握手し色紙を贈られた。時期が今上天皇在位二十周年記念式典と近く、また私的な観劇であったことから報道は差し控えられた。この劇団には人民解放軍少将の階級を持つ習近平の夫人彭麗媛が在籍、公演にも参加していた[要出典]。
研究者として
- 歴史学(交通史、流通史)を専門としたきっかけは、幼少時、美智子妃(当時)と共に御用地を散策中に石碑を見つけたことだという。のちに「そもそも私は、幼少の頃から交通の媒介となる「道」についてたいへん興味があった。ことに、外に出たくともままならない私の立場では、たとえ赤坂御用地の中を歩くにしても、道を通ることにより、今までまったく知らない世界に旅立つことができたわけである。私にとって、道はいわば未知の世界と自分とを結びつける貴重な役割を担っていたといえよう。」と回想している[26]。
- 第5回世界水フォーラムトルコでの開会式では、トルコ語で最後の呼びかけを行い会場は割れるような拍手に沸いた。一方、基調講演では、弥生時代の「唐子・鍵遺跡」の環濠集落や、徳川家康が治水上の安全を根本的に向上させるために実施した「利根川の東遷」の事例を引いて水問題を歴史の視点から語った。「殿下は水と人との関係を、開催国の歴史と日本の伝統を踏まえて具体的な事例を示して講演されるので、開催国と日本の間に「伝統の継承」という美しい橋を架ける」と尾田栄章は評している[27]。
外遊に関するもの
- 1984年(昭和59年)オックスフォード大学への留学中、ロンドンサミット出席のため訪英していた中曽根康弘首相(当時)に、女王の夫君エジンバラ公は「浩宮殿下は完全にロイヤル・ファミリーの一員となっています」と伝えた[28]。
- 2007年(平成19年)の モンゴル訪問においては、到着翌日に日本人抑留者の慰霊碑に供花した。 シベリア抑留者のうち1万4,000人がモンゴルに移送され、約2,000人亡くなっていることに思いをよせたためという。このことに感謝した日本モンゴル協会の人々は、大きな日の丸を振って殿下の車列を迎え、見送った[29]。
国内公務に関するもの
- 1986年(昭和61年)金沢市における全国高校相撲選手権大会で、原稿なしで堂々たるスピーチをされ大きな拍手が涌き起こった。「お言葉」を読み上げる以上の熱意を観衆が感じたためと思われる[30]。
- 沖縄県からの子ども達による記者「豆記者」の受け入れを、平成になってからは皇太子殿下と同妃が引き継がれており、毎年8月に東宮御所でお会いになり、一人一人に声をかけている[31]。
皇族とのもの
- 高円宮家とは家族ぐるみで親しく交際していた。高円宮夫妻は雅子妃と結婚の実現に協力し、子が生まれぬ間には夫妻の支えとなった。また、高円宮憲仁親王の影響からかサッカー関連のエピソードもあり、2002年(平成14年)開催の日韓ワールドカップに際しては私邸と思われる一室にて日本代表のユニフォームを着用し娘・愛子内親王を抱いた写真が撮影されている。
- また、同年の高円宮の逝去の約1週間前に、徳仁親王一家が高円宮邸を訪問したおり、ラフな格好で撮影された皇太子一家と久子妃・典子女王・絢子女王の写真も残っており、両家の親密さがうかがえる。
- 2006年(平成18年)9月6日、秋篠宮妃紀子が愛育病院で悠仁親王を出産した際は、秋篠宮からの電話連絡を受け、「ご無事のご出産おめでとう。妃殿下の手術が無事に終わることを祈っています。両殿下も親王殿下もお身体をお大切に」と祝意を述べた。北海道で公務中だった天皇・皇后の帰京(9日)と見舞い(10日)の後、自らは11日に雅子妃・愛子内親王を伴って見舞いに訪れた。
- 徳仁親王は2007年(平成19年)の誕生日会見で、「(愛子内親王が)両陛下とお会いする機会を作っていきたい」と表明したが[32]、翌2008年(平成20年)2月13日の定例会見で羽毛田信吾宮内庁長官に天皇皇后両陛下への参内(訪問)の回数が増えていないことを指摘された[1]。その直後の誕生日会見では羽毛田長官の発言に対し、参内を心がけたいとして、それ以上の内容は“プライベートな事柄”として発言を控えた[33]。
雅子妃の親族とのもの
結婚までの経緯
1986年(昭和61年)10月18日、東宮御所で催されたスペイン国王フアン・カルロス1世の娘エレナ王女歓迎の茶会に、外務省条約局長だった小和田恆とともに招かれた、恆の長女で外務公務員I種試験に合格して間もない小和田雅子と初対面を果たす。この茶会では言葉はわずかしか交わさなかったが、雅子に好感を持ったとされる。
1987年(昭和62年)4月25日には、高円宮憲仁親王・久子妃夫妻が高円宮邸に徳仁親王と小和田雅子を招き、親交を深めるきっかけを作った[34]。
こうして親王妃候補の一人となった雅子だが、母方の祖父・江頭豊が四大公害病の筆頭である水俣病を引き起こしたチッソの社長であったことが問題視された。江頭は水俣病発生時には社長ではなかったものの、その問題解決に当たり、患者への補償を拒否するなど、問題の解決に積極的ではなかった。水俣病の発生源を有機水銀とは別のものであると強弁した。また、会長在任中の1972年1月7日には、チッソは千葉県五井工場において自主交渉派患者の取材を行っていたアメリカ人写真家ユージン・スミスらへの暴行事件を起こした[要出典]。後藤田正晴が「皇居に筵旗が立つ」と発言[35][出典無効]。1988年(昭和63年)初頭には当時宮内庁長官だった富田朝彦も、「チッソの件が付随しますのでお諦めください」と進言したなど、宮内庁にも慎重論があり[36][出典無効]、多くの関係者がこの結婚に対して反対したことが伝えられている。徳仁親王自身は1988年(昭和63年)2月の誕生日記者会見で、結婚について「七合目、八合目ぐらいといったところでしょうか。山頂は見えていても、なかなかそこへたどり着けないという感じなんじゃないでしょうか」と語った。
こうした経緯から、小和田雅子は親王妃候補から外れた。しかし、この間も徳仁親王の念頭には雅子の存在があり[36]、他の妃候補が次々と辞退したこともあって昭和天皇崩御後に再び親王妃候補となった。また、当時の水俣市長は、「この問題がご成婚の妨げになるとすれば、お気の毒であり心苦しい、雅子さんとは直接関係のないことです。ご成婚された暁には、ぜひお2人で本市を訪問して頂きたい、歓迎致します」と発言している[要出典]。宮内庁内の反対の流れを大きく変えたのは元最高裁判所判事であり当時宮内庁参事であった団藤重光の「江頭氏は再建のため日本興業銀行からチッソに入った。再建できなければ被害者への補償も不可能になる。水俣病の発生について法的責任はない」との見解であった[37]。富田朝彦は後に「和解案を裁判所が提出するとか、前向きの形といいますか、取り組みといったものが出てまいりまして、それでいまの藤森昭一長官ともその情勢をいろいろと話し合って、もうここまでくればいつまでも見守るという態勢ではないだろうと。そろそろいい時期にきたかなと、こういうふうになってきたのが大体の経緯です」と述べている[38]。
また、今上天皇と皇后は「皇太子が選んだ相手との話を進めてもらいたい」との意向を宮内庁に伝えたとされる[39]。小和田雅子が英国留学から帰国した後に、藤森昭一宮内庁長官の依頼を受けた[40]、元外務次官柳谷謙介が宮内庁と小和田家の仲介役を務め、1992年(平成4年)8月16日、柳谷邸にて徳仁親王と雅子が再会し、交際も再開した。同年10月3日に宮内庁新浜鴨場でのデートで徳仁親王が求婚した。小和田家側は辞退したが、徳仁親王は雅子に「天皇皇后両陛下も温かくお迎えするとおっしゃって下さっている[41]」旨を伝えた。そして12月12日に東宮仮御所において雅子は婚約の受諾を伝えた。12月25日に東宮仮御所で、徳仁親王は雅子を今上天皇と皇后に紹介し歓談した。
翌1993年(平成5年)1月6日午後8時45分、報道協定が解除されたため、テレビ各局は通常番組を中断して雅子が皇太子妃に内定したことを報道した。同年1月19日、皇室会議において徳仁親王と小和田雅子の婚姻が全員一致で可決され、同日二人による記者会見が行われた。翌日からは多数の企業が祝賀広告を新聞に掲載するなど国民は祝賀ムードに包まれた。同年4月12日の納采の儀(婚約)を経て、同年6月9日に結婚の儀が執り行われた。
同日、午前8時30分から2時間55分にわたってNHKが中継した結婚の儀の平均視聴率は30.6%(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した。そして成婚パレードの沿道には約19万人が集まり、そのテレビ中継の最高視聴率は79.9%を記録するなど、盛大な祝福を受けた[42]。また当日は、「皇太子徳仁親王の結婚の儀の行われる日を休日とする法律」が制定されて休日となった。また各地で神輿・山車が繰り出され、提灯行列や花火の打ち上げや餅つき、国営公園の無料開放などが行われた。
脚注
- ^ 宮内庁HP皇太子殿下のご講演
- ^ MSN産経 2008年3月11日「殿下がんばれ」 皇太子さまが都心でジョギング
- ^ MSN産経 2009年5月10日皇太子さま、ビオラで「第九」をご演奏
- ^ 「浩宮」は称号であり、名は「徳仁」のみ。
- ^ 「殿下とともに」浜尾実 角川出版
- ^ 「美智子妃」 河原敏明著 講談社文庫 P.160
- ^ 1993年(平成5年)に、留学記『テムズとともに 英国の二年間』(学習院教養新書)を出版している。
- ^ 皇太子さま、国連諮問委の名誉総裁に=「水と衛生」、皇族で初、時事通信、2007年11月1日[リンク切れ]
- ^ YOMIURI ONLINE 2013年3月7日皇太子さま、国連本部で講演…津波被害に言及
- ^ MSN産経 2013年3月17日「災害に強い社会へ強い意志」 皇太子さま国連ご講演の要旨
- ^ 国連水と災害に関する特別会合における皇太子殿下基調講演、宮内庁HP。
- ^ 以上3点「プリンス浩宮」薗部英一 日本映像出版
- ^ 朝日新聞 1989年9月22日
- ^ 日本経済新聞 1991年2月23日夕刊
- ^ 読売新聞 1993年1月20日
- ^ 宮内庁. “皇太子殿下の記者会見 デンマーク・ポルトガル・スペインご訪問に際し(平成16年)”. 2009年11月14日閲覧。
- ^ 宮内庁. “皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成18年)”. 2009年11月14日閲覧。
- ^ 宮内庁. “皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成19年)”. 2009年11月14日閲覧。
- ^ 皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成21年)|
- ^ 『皇太子殿下 皇位継承者としてのご覚悟』明成社 21ページ
- ^ 皇太子殿下の記者会見 皇太子殿下お誕生日に際し(平成25年)|
- ^ 「殿下とともに」浜尾実 角川出版
- ^ 打者は第一試合に出場した茨城県代表・常総学院高等学校(対戦相手は長崎県代表・長崎県立小浜高等学校)の1番打者であった仁志敏久(元横浜ベイスターズ)である。
- ^ 『皇太子殿下 皇位継承者としてのご覚悟』明成社124ページ
- ^ 宮内庁HP阪神・淡路大震災15周年追悼式典で献花台にご供花になる皇太子同妃両殿下
- ^ 『テムズとともに』徳仁親王、学習院総務部広報課、p150。
- ^ 『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、p46 - 54
- ^ 「プリンス浩宮」 薗部英一 日本映像出版
- ^ 『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、p94 - 97
- ^ 「美智子皇后」 河原敏明 著 講談社 p303 - 304
- ^ 『皇太子殿下〜皇位継承者としてのご覚悟』明成社、p133 - 134
- ^ “皇太子殿下お誕生日に際し(平成19年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
- ^ “皇太子殿下お誕生日に際し(平成20年)”. 宮内庁. 2013年10月20日閲覧。
- ^ サンデー毎日 1993年1月24日号
- ^ 患者とその家族は「怨」と白字で大書した黒旗を掲げデモを行っていた。1970年11月28日のチッソ株主総会に際しては、患者がチッソの株を購入して「一株運動」を起こし、全員が巡礼の白装束に身を包んで熊本から総会の行われた大阪厚生年金会館までバスで乗り込み、会場内で鐘を鳴らし続けるなど抗議を行った。このほか密教の僧侶たちにも同様の黒地に白字で文言を書いた旗を掲げて全国を行脚し、抗議活動を行った一団が存在した。
- ^ a b 1993年(平成5年)1月19日 婚約内定記者会見における徳仁親王の発言より
- ^ アエラ 1993年3月9日号「皇太子の御結婚と水俣病 患者と国「恩赦和解」へ動く」
- ^ 毎日新聞 1993年6月10日
- ^ 毎日新聞 1993年1月18日
- ^ 読売新聞 1993年1月7日夕刊
- ^ 朝日新聞 1993年1月20日
- ^ MSN産経【皇室ウイークリー特別編】お写真で振り返る皇太子ご夫妻の15年