ラーマグプタ
ラーマグプタはサムドラグプタの長男で、父王を継承し、弟であるチャンドラグプタ2世に後を継がれた。当初、彼は伝統的物語だけで知られていたが、その後、ジャイナ教の祖師Tirthankaraの図像に彫られた3つの碑文がビディシャ近郊のDurjanpurから発見された。そこでは、 マハーラージャディラージャ(王中の大王)として言及されている。彼は、強制されて彼の兄の婚約者と結婚し、ルドラシンハ4世(Rudrasimha)王に破られ、悩んだ後、王妃をルドラシハ王に送ることにした。チャンドラグプタ2世はDhruvaswaminのいる宮殿に赴き、ルドラシンハ4世を殺し、その後ラーマグプタも殺した。大量の彼の銅貨もビディシャとエランから発見されている[1]。
伝承におけるラーマグプタ
現在の研究者は最初にラーマグプタの伝承記録に関して気づいたのは1923年のことだったシルヴァン・レヴィがDevichandraguptaという名の今は失われたサンスクリット演劇を、Natyadarpanaから取り出した。それはこのテキストのうちの6章を含んでいた。Natyadarpanaはサンスクリット語の演劇論に基づいており、2人のジャイナ教徒の著者、ラーマチャンドラとグナチャンドラによって書かれていた。同年 R. Saraswati も3つの Devichandragupta(神君チャンドラグプタ)の用例を発見し、それはボージャ王のShringaraprakasha とSarasvatikanthabharanaの中で引用されていた。1924年にはRakhaldas Bandyopadhyayがアモーガヴァルシャ1世のサンジャンの銅器の刻文の韻文から見つかった情報を用いて補った。同年 Banabhatta作の Harshacharitaにも短い引用も、 注釈家Shankararyaにより明らかにされた[1]。
A.S. Altekarは、サンジャン、カンバト、サーングリーで発見された銅器の刻文にDevichandraguptaの断片、Banabhattaの短い引用、Rajashekharaの作品Kavyamimamsaでの詩文、ペルシア語テキストで発見されたRawwalとBarkamarisの物語、Mujmal-ut-Tawarikh (無名のサンスクリット語の翻訳をAbu-al Hasan Aliがアラビア語に翻訳したもの)、などの証拠に基づいて、伝承で言及されているラーマグプタは実在したと結論づけた[1]。
ラーマグプタは臆病者だった。彼はチャンドラグプタ2世と婚約していたDhruvaswaminiと強制的に結婚させられた。彼の兄弟はサムドラグプタの死後、未来のグプタ王として宣言した彼はグプタ帝国の王になった。伝承によれば、ラーマぐぷたは彼の王国をグジャラートのサカ族を攻撃することによって拡大しようと決心した。遠征は悪い結果をもたらし、グプタ軍は閉じ込められた。サカ王ルドラシンハ3世は平和と交換に妻のDhruvswaminiを寄越すよう要求した。弱い王は彼の兄弟チャンドラグプタと彼の妻への怒りから、この条件を受け入れる方に傾いた。言い逃れを用いてチャンドラグプタはサカ族の軍営に向かい、サカ王を殺害し、勝利を得てサカ王妃と民衆の尊敬も勝ち取った。少し後ラーマグプタは廃され、彼のチャンドラグプタ2世によって殺された。チャンドラグプタ2世は以前の義姉であるDhruvswaminiと結婚した。
この物語は彼女が口実を設けて夫から自由になる、という点などが、Rani Padmini of Chittor の物語と似ている。Dhruvadevi はチャンドラグプタ2世の王妃であり、王の後継者クマーラグプタの母だった。チャンドラグプタ2世もサカ王国を征服している。これらの物語のうち、どの部分がラーマグプタが演じた部分の反映なのかは明らかではない。
劇作『神君チャンドラグプタ』におけるラーマグプタ
Vishakhadattaによる演劇作品Devichandragupta において、ラーマグプタは戦いを恐れ、能力もない弱く無力な王として描かれている。この演劇はラーマグプタが彼の弟チャンドラグプタの王座の権利を奪い、強制的に弟の婚約者 Dhruvasvaminiを奪ったという話となっている。
脚注
- ^ a b c Agarwal, Ashvini (1989). Rise and Fall of the Imperial Guptas, Delhi:Motilal Banarsidass, ISBN 81-208-0592-5, pp.153-9.
外部リンク
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