柿の木坂
日本の東京都目黒区の町名
柿の木坂
- 東京都目黒区に所在する坂。
- 東京都目黒区の町名。行政地名は柿の木坂一丁目から三丁目。
柿の木坂(かきのきざか。柿ノ木坂、柿木坂とも書く)は、東京都目黒区にある目黒通りの坂である。行政地名としての柿の木坂の2014年1月現在の人口は9,069人[1]。
地理
目黒通りは、東隣の品川区から目黒区に入って権之助坂を目黒川向けてに下り、目黒新橋を渡ってから再び目黒台に向けて金毘羅坂を上る。このあと柿ノ木坂陸橋交差点で環七通りを過ぎ、再び呑川の谷に向けて下る。この坂が柿の木坂である。坂を下りきったところで東急東横線のガードをくぐる。この地点は都立大学駅に近い。
地名としての柿の木坂は、坂の北西一帯の地域である。全体は、北西-南東方向にやや細長い三角形をしており、北西から南東に呑川柿の木坂支流が縦貫している。南東辺を目黒通り、北東辺を環七通り、西辺を柿の木坂通り(区道)が通っており、柿の木坂二丁目と柿の木坂三丁目の間を東西に駒沢通りが通っている。
地価
住宅地の地価は、2014年(平成26年)1月1日の公示地価によれば、柿の木坂2-25-25の地点で67万円/m2となっている。[2]
歴史
町名としての柿の木坂(柿ノ木坂)は、1932年に成立した。同年、目黒区が成立したときに荏原郡碑衾町大字衾の小字東柿木坂北、東柿木坂南、東三谷、東下通、東谷戸、東曾根、東中丸が目黒区柿ノ木坂町となった。1965年に柿ノ木坂町に中根町の一部を合わせた地区に住居表示が実施され、坂に近い南東から、柿の木坂一丁目、柿の木坂二丁目、柿の木坂三丁目となった。
地名の由来
旧・荏原郡衾村。坂の名のいわれには諸説ある。
- 坂の近くに大きな柿の木があった。
- 柿の木がよく見える坂だった。
- 柿を運ぶ車から子供が柿を抜き盗んだ「柿抜き坂」が転じた
- 人家が少なく暗くなると人々が駆け抜けて通った「駆け抜け坂」が転じた
尚、現在では次の説が最も有力であると考えられる。[要出典]
- 当時の柿の木坂は周囲の農家や商人が大八車に荷物を載せて行き来する為に使われ、急で長く続く坂を登るのは慣れていても大変な作業であった。その為、登坂中にはスリに荷物を盗まれる事も多く、積荷を荷台から抜き取る行為が「引っ掻き抜く」と呼ばれていた。それが転じて「掻き抜き坂」となり、明治の初め頃には「柿」が当て字として広く使われるようになり現在の地名の元となった。尚、柿の木坂を登り切った環七通りとの交差点には「岡田屋足袋店」という創業明治19年の足袋店があり(平成14年廃業・平成18年解体)敷地内の目黒通り面してあった高さ10メートル程の柿の木が通りから目立っていたために地名と結びつけて説明される事が多くあったが、これは1920年前後から後の時期に植えられたもので地名とは無関係である。また、柿の木坂には多くの柿の木が多く存在していたからという説があるが、これはこの地域が大規模再開発等の対象とならずに古い景観が多く残った事によるものである。昭和初期より前の東京において柿の木は非常にポピュラーな樹木であり、柿の木坂周辺において特別に多くの柿の木が散見されていたという記録は無い。その為、地名が実際の柿の木や柿を由来としているという説は誤りである可能性が高い。柿の木坂の由来に関する足袋店店主の証言は、目黒区立中央町社会教育館に保管されている「足袋のおもいで」という記録書籍にも一部が記述されている。[要出典]
人口
2014年1月現在
- 1丁目 3,931人
- 2丁目 3,638人
- 3丁目 1,500人
合計 9,069人[1]
その他
- めぐろパーシモンホールは、目黒区柿の木坂の西に接する目黒区八雲に所在するが、「パーシモン」は柿の木坂の「柿」の英訳persimmonに由来する。
脚注
- ^ a b 東京都総務局統計部人口統計課 (2013年1月). “住民基本台帳による東京都の世帯と人口 平成26年1月”. 東京都総務局統計部. 2014年4月20日閲覧。
- ^ 国土交通省地価公示・都道府県地価調査