山口氏

日本の氏族

これはこのページの過去の版です。56ponpon (会話 | 投稿記録) による 2014年8月19日 (火) 06:10個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

山口氏(やまぐち-し)は、日本の氏族の一つ。

武蔵山口氏 (村山党)

山口氏
(武蔵山口氏 (村山党))
 
本姓 桓武平氏武蔵七党村山党 支流
家祖 山口家継
種別 武家
主な根拠地 武蔵国入間郡山口
凡例 / Category:日本の氏族

武蔵山口氏(むさし-やまぐち-し)は、桓武平氏の流れをくむ武蔵七党村山党から派生した支族であり、平安時代末期から戦国時代にかけて武蔵国入間郡山口(現在の埼玉県所沢市山口)を領した。なお、武蔵国には横山党から派生した山口氏もある。

武蔵国多摩郡村山(現在の東京都武蔵村山市)を領した平頼任が村山党の祖となり、その孫の家継が入間郡山口に住み山口を名乗ったのが始まりである。代々山口城に在した。

保元の乱では村山党の金子家忠仙波家信らと共に山口六郎源義朝に従う。

承久の乱では山口兵衛太郎が負傷を負っている。

山口高清の代に武蔵平一揆河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。

その後永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子山口高忠上杉氏に仕え、その後上杉氏が没落すると後北条氏に仕えた。 後北条氏の滅亡後、子孫の山口大善徳川氏に仕えた。

一族

系図

 平高望
  ┃
 平良文
  ┃
(数代略)
  ┃
 平元宗
  ┣━━━━┓
 野与基永 村山頼任
       ┃
       頼家
       ┣━━━━┳━━━━┳━━━━┓
      大井家綱 宮寺家平 金子家範 山口家継
                      ┣━━━┓
                      家俊 仙波家信
                      ┃
                    (数代略)
                      ┃
                      高実
                      ┃
                      高清
                      ┃
                      高治
                      ┃
                      高忠
                      ┃
                      高広
                      ┃
                      高恒
                      ┃
                      高直
                      ┃
                      高泰
                      ┃
                      高種
                      ┃
                      高俊
                      ┃
                      高伯

牛久山口氏

山口氏
(牛久山口氏)
 
唐花菱
本姓 多々良朝臣大内支流
家祖 山口持盛
種別 武家
華族子爵
出身地 周防国山口
主な根拠地 常陸国河内郡
凡例 / Category:日本の氏族

牛久山口氏(うしく-やまぐち-し)は、牛久藩を12代にわたって支配した大名で、戦国時代の守護大名・大内氏庶流に当たる。応永の乱室町幕府第3代将軍・足利義満に反乱を起こした大内義弘の次男・大内持盛を祖とし、大内氏の本拠地・周防国山口の地名をとって、山口氏と称した。

山口重政ははじめ織田信長の家臣佐久間正勝に仕え、小牧・長久手の戦いでは信長の次男・信雄に仕え、以後徳川家康に仕えた。そして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける戦功により、上総国5000石、武蔵国5000石の所領を与えられ、合計1万石を領する大名になった。その後、下野国に5000石を加えられ、1万5000石となっている。

しかし慶長18年(1613年1月8日、重政の嫡子・山口重信大久保忠隣の養女との婚姻を幕府に届けなかったとして、私婚禁止違反であるとして幕命により改易された。

その後、重政は罪を許されて再び常陸国、遠江国に1万5000石の所領を与えられた。

第2代藩主・山口弘隆のとき、領地が常陸国下総国に集められ、牛久に陣屋を構えた。

牛久藩は、山口氏の支配で明治時代にまで至った。

一族

系図

太線は実子、細線は養子。
大内義弘
  ┣━━━━━━━━━┓
山口持盛       大内持世周防大内氏)
  ┃
 教幸
  ┃
 任世
  ┣━━━━━━━━━┓
 盛幸        教仲
  ┣━━━━━━┓  ┣━━━┓
 盛重     安盛 盛仲  教房
  ┣━━━┓  ┃  ┃   ┃
 盛政  重俊 宗可 仲政  教継
  ┃   ┃  ┃      ┃
 重政  重勝 盛昌     教吉
      |
     重政
  ┏━━━╋━━━┳━━━┓
 重信  重長  弘隆  重恒
          ┣━━━┓
         重貞  重治
          |   ┃
         弘豊  弘豊
          ├━━━┳━━━┓
         弘長  弘倉  弘道
          |
         弘道
          ├━━━┓
         弘務  弘致
          ┣━━━┳━━━┓
         弘封  弘穀  弘敞
          |
         弘穀
          |
         弘敞
          ┃
         弘達

相模山口氏 (三浦党)

山口氏
(相模山口氏 (三浦党))
 
本姓 桓武平氏三浦支流
家祖 山口有綱
種別 武家
主な根拠地 相模国三浦郡山口
凡例 / Category:日本の氏族

相模山口氏(さがみ-やまぐち-し)は、桓武平氏の流れをくむ三浦一族から派生した支族であり、平安時代末期から鎌倉時代にかけて相模国三浦郡山口(現在の葉山町上山口、下山口)を領した。三浦義澄の次男有綱(次郎有綱、兵衛尉有綱とある。系図によっては有継と表記)より始まる。吾妻鏡によれば、源頼朝に従い東大寺大仏供養(建久6年3月9日)の時に上洛とある。


尾張山口氏

  • 尾張山口氏は、戦国時代の守護大名・大内氏の末裔に当たる。大内氏の本拠地・周防国山口の地名をとって、山口氏と称した。

その他

神護景雲元年(767年)に、山口犬養という人物が山口朝臣姓を与えられている(『続日本紀』)。その後、山口朝臣春方、岑世、連松の名が見える。また、平安時代には伊美吉姓の山口氏として山口西成などが出ている。