フレンスブルク政府

ヒトラー自殺後、降伏するまでのドイツ政府

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フレンスブルク政府
Flensburger Regierung
ナチス・ドイツ 1945年 - 1945年 連合軍軍政期
連合軍軍政期 (オーストリア)
フレンスブルク政府の国旗 フレンスブルク政府の国章
国旗国章
フレンスブルク政府の位置
黒の領域は1945年5月時点での非占領地域。
首都 フレンスブルク
大統領
1945年4月30日 - 5月23日 カール・デーニッツ
変遷
ヒトラー自殺 1945年4月30日
設立1945年5月1日
降伏文書調印1945年5月7日
降伏文書批准1945年5月8日
デーニッツら逮捕1945年5月23日
通貨ライヒスマルク

フレンスブルク政府(フレンスブルクせいふ、: Flensburger Regierung, : Flensburg Government)は、第二次世界大戦末期にドイツに設立された臨時政府1945年4月末にソ連軍との戦いの末陥落したベルリンで行政・軍事の統治が不可能となったため、ナチス党政府の要人はシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州にあるフレンスブルクに行政機能を移転し、疎開政府機関として無条件降伏までの敗戦処理を執り行った。デーニッツ政府: Regierung Dönitz)とも呼ばれる。

連合国軍とドイツの無条件降伏に向けた敗戦処理の交渉、権威が及ぶ範囲で有力ナチ党員・親衛隊員の要職からの解任を主な執務としたが、ドイツ全土には連合軍によって占領統治が行われていた。5月23日には閣僚が逮捕されてその機能を失った。6月5日のベルリン宣言により、中央政府がドイツに存在しないことが確認された。

成立

政府機能の疎開

1945年4月、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーはベルリンにある総統官邸地下の総統地下壕で作戦の指揮を行っていた。ベルリンはすでにソ連軍の攻撃下にあり、包囲・陥落も時間の問題であった。親衛隊全国指導者・内相のハインリヒ・ヒムラーはかねて画策していた首都機能の移転を実行するべく、その地を戦災の比較的少なかったドイツ北部のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州に決めていた。4月20日の総統誕生日にヒトラーは国防軍最高司令部陸軍総司令部空軍総司令部、そして閣僚の避難を許可し、ドイツが戦線によって分断された時に備えて、ドイツ北部にいるドイツ軍の統帥を海軍総司令官カール・デーニッツ元帥に委任した。デーニッツはキールに近いオイティン湖のほとりブレンの海軍司令部に移り、そこで、海軍全般の指揮の他に北ドイツでの難民の輸送、補給作業を指揮することになった。

4月21日、ヒトラー、ゲッベルスボルマンを除く主な閣僚も避難し、国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥、作戦部長アルフレート・ヨードルを含む国防軍最高司令部・陸軍総司令部の一部はデーニッツに合流するためブレンへ、空軍総司令官ゲーリングを含む空軍総司令部と国防軍最高司令部・陸軍総司令部の大半、総統官房長ハンス・ハインリヒ・ラマースオーバーザルツベルクへ疎開した。避難した閣僚の多くはオイティンに移り、4月23日には移転初の閣僚会議が地方議会議事堂で行われたが、この議長は最年長であり当時財務大臣であったルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージクが務めている。

ヒトラーの死

一方ヒムラーはブレンに近いリューベックに移り、スウェーデンの外交官フォルケ・ベルナドッテ伯を通じた米英軍との停戦交渉を極秘に行っていた。しかしこの交渉は失敗に終わった。4月28日、ヒムラーの和平交渉の存在がBBC放送で全世界に公表された。ヒムラーの交渉を知ったヒトラーは激怒し、ヒムラーの解任と逮捕を命令した。さらにヒトラーは4月29日に作成した遺書において、デーニッツを後継者に指名した。しかし、デーニッツの地位は総統ではなく、ヒトラーが1934年に国家元首法により権限を吸収して以来空位となっていた大統領に、また自身の職首相にはゲッベルスを指名していた。またこの遺書でゲーリング、ヒムラーを裏切り者として非難、彼らを党から追放すると記してあった。その時、ゲーリングはすでに解任されて親衛隊の監視下にあった。一方、ヒムラーはデーニッツの元にいたが、彼はヒトラーにこのような宣告をされていたことを知らされていなかった。

4月30日午後3時半頃、ヒトラーはベルリンの総統官邸地下壕内で自殺した。しかし、この時のベルリンはソ連軍の猛攻下にあり、総統官邸地下壕はほとんど孤立していたため、ヒトラーの死はすぐに外部に漏れることはなかった。

政府成立

4月30日、早朝デーニッツは総統官房から無線で「ヒムラーがスウェーデンを経由連合軍と交渉する反逆罪を犯し、迅速かつ冷厳に親衛隊総司令官に対処すべし」との指令を受けた。しかし、全ての権限はヒムラーが掌握しており地上での戦闘力のない海軍長官が指令を実行するのは容易ではなかった。また、敵側のラジオ放送を根拠にした点からも懐疑的であり、午後にリューベックでヒムラーと会見した。ヒムラーは敵との接触を完全に否定し、デーニッツも実行の難しい「反逆者の処罰」よりも、ヒムラーが後継者から除外された事実だけを見「自らは海軍は降伏させるが、海軍軍人として最後の戦闘での死ぬ」と海軍軍人としての決意を固めた。

同日午後にボルマンから、特別の暗号解読認証を受けたドイツ海軍通信部隊経由で「総統は、ゲーリング元帥に換えてデーニッツ元帥を後継者と定められた。今後現状にて可能な全ての処置を取られたし」(第1号電報)という電文が届けられた。これにより、デーニッツはヒトラーがすでに死亡したか、または死を目前にしていると考えた。デーニッツは湖畔を歩き、副官ノイラートに「国家形態をどうするべきか」とつぶやいた。これは後に発表した「三本の柱をもつ憲法(静の元首、行動の政府主席、国民の意思を代表する議会)」の原案について口にした最初であった。デーニッツは「ヒトラーの後継者となることを義務とみなした。国民と軍隊に最良と信ずる道を歩むしかない。」「(軍人としての決意を翻すことが)仮にそれが自分のためには不名誉なものであっても」と副官ノイラートは後に回想している[1]

5月1日午前0時、国内最大の実力者のヒムラーが重武装の親衛隊と共にデーニッツの元を訪れた。デーニッツが第1号電報を示すと、ヒムラーはデーニッツの地位を承認する代わりとして首相の地位を要求した。デーニッツは「私の作る極力非政治的な政府に政治的に傑出した者の席はないし、相手側から貴殿は交渉相手になりえない」と降伏交渉に重荷になることを説明し断った。ヒムラーは理解しなかったが、引き下がった。

同日午前、デーニッツの元にボルマン署名の「遺書発効す。自分は速やかにそちらに赴く予定。それまでは公表を控えられるべし」との、ヒトラー死去という事実については曖昧にしたままの第2号電報が入電した。これはボルマンが、ヒトラーの死という事実を隠蔽することによって自身の権力を延長しようと図ったものであった。しかしデーニッツは敵側の報道から知られることを危惧してドイツ国民にヒトラーの死を伝えることとした。午後10時15分ハンブルク放送のラジオ演説でデーニッツは、「英、米、ボルシェヴィズムと戦い続ける意思」を改めて表明し、自らにヒトラーから国家元首と国防軍の最高司令官としての職責が託され「ドイツ国防軍を指揮し守り戦い続ける」「私の任務は押し寄せる共産主義たちによる破滅からドイツ人を救うことであり…来るべき苦難の時代に力の及ぶ限り耐えうる生活条件を作り出す努力をする…私を信頼してもらいたい、諸君の道すなわち私の道だから…」と国民の協力をもとめた。ただ、その地位は曖昧なために署名の肩書きは大提督とだけ記された。

同日午後、ゲッベルスとボルマンの共同署名になる明確な内容の第3号電報が到着した。ここではヒトラーの死の事実が初めて明らかにされるとともに、ヒトラーの遺言の概要が伝えられていた。デーニッツはここでヒトラーが自殺し、自身の大統領就任が発効したことを知った。この第3号電報ではヒトラーの遺言で首相にゲッベルス、党担当相(党首)にボルマン、外相にザイス=インクヴァルトが指名されていることも通知されたが、当時ゲッベルスは総統地下壕に滞在しており、連絡をとることができなかった[2]。 また、ヒトラーの遺書は輸送途上で隠匿されてしまい、デーニッツはその全文を知ることができなかった。デーニッツはヒトラーの遺言による閣僚任命に驚いたが、出来るだけ沢山の人間を救いつつ戦争をできるだけはやく終結させるための交渉に、極めて重荷になる人事を「ヒトラーの死後の命令」として無視することを決意しフォン・クロージクを閣僚首班に指名し、組閣を依頼した。なお、デーニッツの身辺警護隊としてフォン・ビューロとアリ・クレーマーを指揮官として、水兵による陸戦隊が編成された。

5月3日、新政府は拠点をフレンスブルク郊外のミュルヴィックにあった海軍学校へ移した。この際、シュペーアとヒムラーはともにバート・ブラムシュテットへ一時疎開している。

5月5日、「フレンスブルク政府」は初めて閣議をひらいた。また同日にヒムラーも150人あまりの側近を連れて合流し、ゲシュタポの解体に手をつけたがこの際に隊員等の身分偽証工作を行ったとされる。

5月6日、デーニッツはシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の最高責任者としての大管区指導者ヒンリヒ・ローゼを解任、17時には入閣を望んでいたヒムラーとアルフレート・ローゼンベルクをすべての職務から解任、ほかにもヒトラー内閣の司法相オットー・ティーラック、生死不明であったゲッベルスを解任した[3]。これらの解任は、フレンスブルク政府が連合国によって容認されやすくするためとも、生え抜きの党幹部の在任が新政府の障害となった事などが理由であるとされる。

降伏交渉

 
カルルスホルストで調印されたドイツ軍の降伏文書。

すでにドイツがその体制を維持できず、軍部ももはや降伏以外に道がないことをヒトラー同様に承知していた。そして、デーニッツはドイツの最高指導者の地位の受け継ぎが「ヒトラーに出来なかったことを成すこと」と了知していた。しかしソ連に降伏した国防軍兵士や難民が、ソ連軍兵士からの虐殺など容認しがたい被害を受けているとの事実を、難民らからの聞き取りとドイツ軍が奪還したソ連軍が占領した村などでの実地調査から、「殺人、放火、拷問、暴行、略奪」の報告を海軍法務局から既に受けていた。このためデーニッツは西方(イギリス軍アメリカ軍占領地)での投降は受け入れられるが、東方(ソ連軍)では戦闘を継続し、ソ連側に取り残されている市民や兵士の本国と西方占領地区への避難のルートと時間を確保するべきだと考え、部分的な降伏を画策し東部地域での戦闘継続を画策した。

彼の意向を受けた国防軍最高司令部総長カイテル及び国防軍最高司令部作戦部長ヨードルは、西側から侵入する米英軍の方へドイツ軍の残存兵を移動するよう命令した[4]

5月6日、デーニッツはヨードルに、連合軍に対する国防軍の降伏文書に署名する許可を与えた。翌5月7日、対米英仏連合軍への降伏はフランスランスにおいて調印され、5月8日午後11時1分が停戦発効時間であると定められた。しかし連合軍がベルリンで降伏文書を批准する調印式を要求したため[5]、国防軍代表カイテル、海軍代表フォン・フリーデブルク、空軍代表シュトゥムプフらを派遣した。ベルリン時間で5月9日午前0時15分(ロンドン時間5月8日午後11時15分、モスクワ時間5月9日2時15分)[6]ベルリンにおいて降伏批准文書が調印された。

解散

 
連行されるフレンスブルク政府首脳
前の軍服姿がデーニッツ、その後にいるのはヨードルとシュペーア。

国防軍の無条件降伏後、軍需大臣シュペーアはフレンスブルク政府自体が解散しなければならないと提案した。しかしデーニッツとその他の大臣たちは、臨時政府として戦後ドイツを統治できるという希望を持っていた。イギリス国民に勝利を宣言するウィンストン・チャーチルのスピーチ「明らかな国家元首であるデーニッツ元帥」という部分は事実上、少なくとも無条件降伏の瞬間までフレンスブルク政府を当局として認識していたことの証拠であった。しかし、連合国はフレンスブルク政府を即座に解体することを決定した。

5月20日、ソ連政府はそれまでのフレンスブルク政府について考えられていたことを白紙にした。彼らはデーニッツ政府(彼らは「デーニッツ・ギャング」と呼んだ)がどんな権力を持つことも許さず、どんな考えでも厳しく批判、これを攻撃した。プラウダには以下の通り記述された。

デーニッツ周辺のファシストギャングどもの威信についての議論はまだ続いており、いくつかの目立った連合軍の集団はデーニッツとその協力者の「活動」を利用することを必要と考えている。イギリス議会でこのギャングどもは「デーニッツ政府」と呼ばれている。(中略)反動的な新聞『ハースト』の記者はデーニッツの兵籍編入を「政治的に賢明な行為」と称した。このように、ファシストの物書きどもはヒトラーの弟子たる略奪者と協力することを正しいと考えている。同時に、ドイツの右翼が差し迫った混乱に似たおとぎ話を作り出したとき、1918年のドイツが条件付けたことを大西洋両側のファシスト報道機関は広めようとしている。その後、降伏の直後、無傷のドイツ軍部隊が東方で新たな冒険に使われた。現在の政治活動にも似たようなものが存在し、連合軍の多くの反動的な集まりはクリミア会議に基づいた新たなヨーロッパを作ることに反対している。これらの集まりはファシスト体制の維持を考えており、すべての自由を愛する国々の民主主義の成長を阻害する手段を取ろうとしている。・・・(後略) — Dollinger, Hans. The Decline and Fall of Nazi Germany and Imperial Japan, Library of Congress Catalogue Card # 67-27047, Page 239

5月23日、イギリス軍の連絡将校はデーニッツの本部へ向かい、すべての政府要員と話すことを要求した。その後、連絡将校はデーニッツ政府の解散とすべての要員の逮捕を命じているアイゼンハワー将軍の命令を読みあげた。これによってフレンスブルク政府は解体され、デーニッツ以下の政府要員は連合国に拘束された。なお、それに先立つ5月13日、国防軍最高司令部総長カイテルは連合軍に逮捕された。国防軍最高司令部総長の職はヨードルが引き継いだものの、彼も5月23日にデーニッツらと共に逮捕された。

閣僚構成 (1945年5月23日)

役職 氏名 備考
大統領・国防軍最高司令官・海軍総司令官・国防大臣 カール・デーニッツ
筆頭閣僚(首相代行)・外務大臣・財務大臣 ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク 財務大臣としては留任
内務大臣・文化大臣 ヴィルヘルム・シュトゥッカート 前内務次官
国防軍最高司令部総長 アルフレート・ヨードル 国防軍最高司令部総長ヴィルヘルム・カイテルが1945年5月13日に逮捕されたため、その後任
軍需大臣・経済大臣 アルベルト・シュペーア 軍需大臣としては留任
農業大臣・食糧大臣 ヘルベルト・バッケ 食糧大臣としては留任
労働大臣 フランツ・ゼルテ 留任
運輸大臣・郵政大臣 ユリウス・ドルプミュラー 留任
行政長官・民生国防委員長 パウル・ヴェーゲナーde:Paul Wegener (Gauleiter)

参考文献

  • wフランク著 松谷健二訳『デーニッツと灰色狼』(フジ出版社)
  • アルベルト・シュペーア著 品田豊治訳 『第三帝国の神殿にて -ナチス軍需相の証言』下(中央公論新社、2001年)
  • 井上茂子ドイツ降伏の日はいつか? : 第二次世界大戦終結をめぐる神話と伝説(月例会発表要旨新入生歓迎記念講演)」(PDF)『上智史學』第51号、上智大学、2006年、pp. 241-242、NAID 110006426456 
  • 児島襄『第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 10巻』文藝春秋社文春文庫〉、1993年。ISBN 978-4167141455 

脚注

  1. ^ Wフランク「デーニッツと灰色狼」フジ出版 p491
  2. ^ 実際のゲッベルスは5月1日午後8時15分に総統官邸の中庭で自殺した。
  3. ^ ヒュー・トレヴァー=ローパー橋本福夫訳『ヒトラー最期の日』(筑摩書房、1975年)230・231ページ
  4. ^ The German Surrender Documents - Wwii:
  5. ^ 井上(2006:241-242)
  6. ^ 井上(2006:242)

関連項目

外部リンク