フィリップ・キノー
フィリップ・キノー(Philippe Quinault、1635年6月3日 - 1688年11月26日)は17世紀フランスの劇作家。悲劇がコルネイユからラシーヌの手によって変遷を遂げる中、無視できない役割を果たした。
フィリップ・キノー | |
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![]() キノーの肖像画 | |
誕生 |
Philippe Quinault 1635年6月3日 フランス、パリ |
死没 |
1688年11月26日 フランス、パリ |
職業 | 劇作家 |
言語 | フランス語 |
国籍 | フランス |
活動期間 | 1643年-1673年 |
ジャンル | 喜劇 |
文学活動 | 古典主義 |
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生涯
パリにて、パン職人の息子として生まれた。幼いころから『マリアンヌ(La Marianne)』の大成功で名高いトリスタン・レルミットの侍僕となり、才能を認められて弟子となる。1653年、18歳の時に喜劇「恋敵の娘たち」をブルゴーニュ劇場でデビューし、成功を収めた。1658年には悲喜劇「いつわりのアルシビャッド」を制作。こちらも成功した。1660年には裕福な未亡人と結婚し、宮廷に職を得て、国王からの年金をも獲得した[1][2]。
1665年には喜劇「チールの王アストラート」を書き、大成功を収めたが、ニコラ・ボアロー=デプレオーに酷評された。この作品は小説の影響を受けており、構成や描写表現が古典劇の理想とは程遠いものであったからである。国王ルイ14世の寵愛を受けていた作曲家ジャン=バティスト・リュリにオペラの作詞を依頼され、1668年以後はそれを主体とするようになった。1670年、アカデミー・フランセーズの会員となり、1671年の舞踊劇「プシシェ (戯曲)」ではモリエール、ピエール・コルネイユと協力して作品を完成させた[1][2]。
1673年の「カドミスとエルミオーヌ」の大成功をきっかけに、毎年リュリと組んで、音楽悲劇を制作することとなった[3]。1674年に「アルセスト」、1675年に「テゼ」、1677年に「イジス」など多くのオペラの傑作を生み、国王の庇護のもと上演されたが、その傍らで劇作をも続けていた[1][2]。どのオペラでも主題を決めていたのはルイ14世であった。国王が主題を提案し、これを受けて、キノーが書いた詩を国王に朗読して承認を得ていた。国王の関与はキノーの引退まで例外なく続いていた[4]。
1686年に制作した「アルシッド」をもって、信仰心の深まりから引退した。コルネイユの時代にデビューし、ラシーヌの最盛期を知り、その後も悲劇で成功を続けることができたのは、古典主義期に数少ない抒情詩の才能によるものである。17世紀前半から中ごろにかけて流行ったマドレーヌ・ド・スキュデリーに代表されるような、甘美なプレシオジテを保ち続けたことも大きな理由の1つである[1][2]。引退してから2年後、1688年11月26日にパリにて死去した。
脚注
- 「白水社」は「モリエール名作集 1963年刊行版」、「筑摩書房」は「世界古典文学全集47 モリエール 1965年刊行版」。