萩の乱

日本の士族反乱

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萩の乱(はぎのらん)は、1876年明治9)に山口県で起こった明治政府に対する士族反乱の一つである。

萩の乱

『萩一戦録』(早川松山画)
戦争:士族反乱
年月日1876年10月28日 - 1876年12月8日
場所山口県 萩市
結果:政府軍の勝利
交戦勢力
 大日本帝国陸軍 殉国軍
指導者・指揮官
三浦梧楼 前原一誠
奥平謙輔
戦力
広島鎮台
*歩兵第11連隊
広島警備
*歩兵第12連隊1個大隊
馬関警備
*歩兵第14連隊第2大隊1個小隊
大阪鎮台
*歩兵第8連隊第3大隊および砲兵1個小隊
約200
士族反乱

1876年10月24日熊本県で起こった神風連の乱と、同年10月27日に起こった秋月の乱に呼応し、山口県士族前原一誠(元参議)、奥平謙輔ら約200名(吉田樟堂文庫「丙子萩事変裁判調書」では506名、岩村通俊遺稿では2千余名と諸説あり)によって起こされた反乱である。

概要

前参議前原一誠は辞職したのち故郷で各地の不平士族と連絡を取っていたが、熊本城下での神風連の決起を聞くと旧藩校明倫館を拠点に同志を集め、10月26日には県庁を挟撃するため徳山の同志・今田浪江らに決起を促す使者を派遣した。10月28日には前原を指導者とする「殉国軍」が挙兵したが、県庁襲撃は政府側に事前に察知されたため、天皇直訴するため須佐より山陰道を東上するよう方針を転換した。しかし、悪天候で断念した上、虚報(袂を分かった諫早基清が萩を占拠し近親者を処罰しているという説有り)により一旦萩に戻った所、待ち伏せていた政府軍と市街戦となり県令関口隆吉を敗走させた。

その後、前原らは軍勢を小倉信一有福洵允にまかせ幹部5名のみ別行動をとったが、小倉らは萩で三浦梧楼少将率いる広島鎮台と軍艦孟春の攻撃を受け、11月6日までに政府軍により鎮圧された。この際鎮圧に従軍した清水清太郎の日記では「賊徒凡三千五百人」とある。また、前原・奥平ら幹部と従者白井林蔵・馬来木工の7名は東京へ向かうべく船舶に乗船し、萩港を出港したが、悪天候のため宇竜港(現在の出雲市内にあった)に停泊中、11月5日に島根県令佐藤信寛らに弁明の機会を与えることを条件に投降し逮捕された。なお、前原は決起の前に元会津藩士で親交のあった永岡久茂と連絡を取っており、永岡は10月29日に千葉県庁襲撃未遂事件(思案橋事件)を起こしている。

12月3日に山口裁判所・萩臨時裁判所(裁判所長・岩村通俊)にて弁明の機会無しに関係者の判決が言い渡され、首謀者とされた前原と奥平および横山俊彦、佐世一清(前原実弟)、山田頴太郎(前原実弟)、有福旬允、小倉信一、河野義一は即日(翌日説有り)斬首された。 残る人物の処遇は明治九年司法省之部賊徒口供書では有罪72名、無罪1名、放免299名、合計372名(諸説あり萩の乱刑死者追悼詩書木額では懲役48人・除族放免15人・放免388人とも、岩村通俊判事ノ遺稿では懲役60余人・2千余を放免とも)この裁判の処罰は司法卿大木喬任により制定された臨時暴徒処分例(明治9年11月8日)が適用された。 なお、松下村塾の塾頭玉木文之進吉田松陰の叔父)は養子である玉木正誼乃木希典の弟・萩での市街戦で戦死)や甥・杉民治の長男で吉田家の家督を相続していた吉田小太郎、そして前原をはじめ多くの塾生らが事件に関与した責任を感じ切腹した。


参考文献

関連項目