ダニエル・パサレラ
ダニエル・パサレラ(Daniel Passarella, 1953年5月25日 - )は、アルゼンチン・ブエノスアイレス州・チャカブーコ出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。アルゼンチン代表であった。選手時代のポジションはディフェンダー(センターバック)。現CAリーベル・プレート会長。
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名前 | ||||||
本名 |
ダニエル・アルベルト・パサレラ Daniel Alberto Passarella | |||||
愛称 |
El Guerrero(エル・ゲレーロ、戦士) El Gran Capitán(エル・グラン・カピタン、偉大なキャプテン) El Kaiser(エル・カイセール、皇帝) | |||||
ラテン文字 | Daniel PASSARELLA | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | アルゼンチン | |||||
生年月日 | 1953年5月25日(71歳) | |||||
出身地 | ブエノスアイレス州, チャカブーコ | |||||
身長 | 174cm | |||||
体重 | 71kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF | |||||
利き足 | 左足 | |||||
代表歴 | ||||||
1974-1986 | アルゼンチン | 70 (22) | ||||
■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
選手としてはリーベル・プレートやインテルに所属し、アルゼンチン代表としてはキャプテンとして1978 FIFAワールドカップに出場して優勝した。指導者としてはアルゼンチン代表やウルグアイ代表の指揮を執り、アルゼンチンを率いた1998 FIFAワールドカップではベスト8となった。2009年12月に古巣リーベルの会長に就任した。
アルゼンチンの独立運動の英雄であるホセ・デ・サン・マルティンと同様にエル・グラン・カピタン(El Gran Capitán、偉大なキャプテン)と呼ばれるほか、そのリーダーシップ・熱情・勇敢さからフランツ・ベッケンバウアーと同様にエル・カイセール(El Kaiser、皇帝)と呼ばれることもある。
攻撃参加が持ち味のディフェンダーとして知られ、攻撃の組み立てやフィニッシュに貢献した。通算451試合に出場して134得点を記録しており、国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)によれば、元オランダ代表のロナルド・クーマンに次いで2番目に得点数の多いディフェンダーである[1]。パサレラの空中戦の強さは守備でも攻撃でも効果的であり、身長は高くない(173cm)が、頻繁にヘディングでゴールを決めた。優れたフリーキッカーであり、またPKも得意とした。審判が見られずに肘を使うプレーも特筆できる。
経歴
選手
クラブ
ブエノスアイレス州のフニン地区に本拠地を置くサルミエントでキャリアをスタートさせ、リーベル・プレートで6度のプリメーラ・ディビシオン優勝を果たした後にイタリアに渡った。1982年から1986年までACFフィオレンティーナに在籍し、インテルにも短期間在籍した。セリエAで成功を収めた後にリーベルに復帰し、1989年に現役引退した。
代表
1978年には地元アルゼンチンで開催された1978 FIFAワールドカップに出場し、24歳でキャプテンを務めてアルゼンチンの初優勝に大きく貢献した。決勝でオランダに勝利して優勝を決めた際には、アルゼンチンの選手で最初にFIFAワールドカップトロフィーを頭上に掲げた。
1986 FIFAワールドカップ・南米予選のペルー戦では、ロスタイムに本大会出場を決定づける得点を挙げた。全腸炎のために1986 FIFAワールドカップ本大会には出場できず、ホセ・ルイス・ブラウンがパサレラの代わりに出場した。中心選手であったディエゴ・マラドーナおよびカルロス・ビラルド監督とそりが合わなかったとも言われており、パサレラは後に、この2人が自分を欠場させたと主張している。もし1986 FIFAワールドカップに出場していれば、2度優勝カップを掲げたアルゼンチン初の選手となっているはずであった。
指導者
1989年にリーベルで選手生活を終えた後、すぐに同クラブの監督に就任し指導者としてのキャリアをスタートさせた。プリメーラ・ディビシオンで3度の優勝を果たし、1994年にはアルフィオ・バシーレ監督の後任としてアルゼンチン代表監督に就任。親友のアメリコ・ガジェゴをアシスタントコーチに据えると、1998 FIFAワールドカップ・南米予選でチームを率いて本大会出場を決め、フランスで開催された1998 FIFAワールドカップ本大会でも采配を振るった。パサレラは代表選手に長髪・イヤリング・同性愛を禁止し、何人かの選手とは論争となった。フェルナンド・レドンドやクラウディオ・カニージャなどはパサレラのチームでプレーすることを拒否し、彼らはメンバーから除外された[2]。アルゼンチン代表は期待されたほどのプレーを見せられず、準々決勝でオランダに1-2で敗れてベスト8に終わった。大会終了後に代表監督を退任し、マルセロ・ビエルサが後任監督に就任した。
1999年にウルグアイ代表監督に就任したが、ウルグアイ国内のクラブからの選手招集に関して問題を抱え、2002 FIFAワールドカップ・南米予選の最中に職を離れた。2001年には短期間だけセリエAのパルマの監督を務めた。2002年にはメキシコのモンテレイ監督に就任して、2003年にプリメーラ・ディビシオン覇者となった。
2004年3月、ペレによってFIFA 100に選出された。2005年には大型補強による改革を進めるブラジルのコリンチャンス監督となったが、わずか数ヶ月指揮を執っただけで、成績不振を理由に解任された。2006年1月9日、レイナルド・メルロ監督の突然の辞任によって空白となっていた古巣・リーベル・プレートの監督に12年ぶりに就任した。しかし、チームは思うような成績をあげられず、2007年11月15日、コパ・スダメリカーナ準決勝でアルセナルFCにPK戦の末に敗れると、その翌日に監督を辞任した。約2年の監督在任中、リーベルはひとつもタイトルを獲得することが出来なかった。
所属クラブ
- CAサルミエント 1971-1973
- CAリーベル・プレート 1974-1982
- ACFフィオレンティーナ 1982-1986
- インテル 1986-1988
- CAリーベル・プレート 1989
指導歴
タイトル
選手
- CAリーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン (6): 1975メトロポリターノ, 1975ナシオナル, 1977メトロポリターノ, 1979メトロポリターノ, 1979ナシオナル, 1981ナシオナル
- アルゼンチン代表
- FIFAワールドカップ (2): 1978, 1986
指導者
- CAリーベル・プレート
- プリメーラ・ディビシオン (3): 1989–90, アペルトゥーラ1991, アペルトゥーラ1993
- CFモンテレイ
- プリメーラ・ディビシオン (1): 2003
個人
- 南米年間最優秀監督賞 (1) : 1997
- ワールドサッカー誌選出 20世紀の偉大なサッカー選手100人 66位 : 1999
- FIFA 100 : 2004
個人成績
クラブ成績 | リーグ | カップ | リーグ杯 | 国際大会 | 通算 | |||||||
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シーズン | クラブ | リーグ | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 | 出場 | 得点 |
アルゼンチン | リーグ | カップ | リーグ杯 | 南米 | 通算 | |||||||
1974 | リーベル・プレート | プリメーラ | 22 | 5 | ||||||||
1975 | 29 | 9 | ||||||||||
1976 | 35 | 24 | ||||||||||
1977 | 40 | 13 | ||||||||||
1978 | 19 | 4 | ||||||||||
1979 | 38 | 9 | ||||||||||
1980 | 41 | 12 | ||||||||||
1981 | 42 | 14 | ||||||||||
イタリア | リーグ | イタリア杯 | リーグ杯 | ヨーロッパ | 通算 | |||||||
1982–83 | フィオレンティーナ | セリエA | 27 | 3 | 5 | 0 | - | - | 2 | 0 | 34 | 3 |
1983–84 | 27 | 7 | ||||||||||
1984–85 | 26 | 5 | ||||||||||
1985–86 | 29 | 11 | ||||||||||
1986–87 | インテル | 23 | 3 | 8 | 4 | - | - | 7 | 1 | 38 | 8 | |
1987–88 | 21 | 6 | 8 | 1 | - | - | 6 | 0 | 35 | 7 | ||
アルゼンチン | リーグ | カップ | リーグ杯 | 南米 | 通算 | |||||||
1988–89 | リーベル・プレート | プリメーラ | 32 | 9 | ||||||||
通算 | アルゼンチン | 298 | 99 | |||||||||
イタリア | 153 | 35 | ||||||||||
総通算 | 451 | 134 |