ジャッキー・オリバー
キース・ジャック・「ジャッキー」オリバー (Keith Jack "Jackie" Oliver, 1942年8月14日 - ) は、イギリスの元フォーミュラ1ドライバー、チームオーナー。エセックス州チャドウェル・ヒース出身。彼はレーシングドライバーであると共に、アロウズの創立者の一人としてよく知られる。レーシングドライバーとして彼はル・マン24時間レースとカンナム・チャンピオンシップの両方のタイトルを獲得した。
ジャッキー・オリバー | |
---|---|
| |
基本情報 | |
国籍 |
![]() |
生年月日 | 1942年8月14日(81歳) |
F1での経歴 | |
活動時期 | 1967年-1973年, 1977年 |
所属チーム | ロータス, BRM, マクラーレン, シャドウ |
出走回数 | 51(50 starts) |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 2 |
通算獲得ポイント | 13 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 1 |
初戦 | 1967年ドイツグランプリ |
最終戦 | 1977年スウェーデングランプリ |
レーサーとしての経歴
オリバーはそのレース経歴を1961年から始め、初めはイギリスのクラブサルーンレースでミニをドライブした。続いてロータス・エランによるGTレースにステップアップ、何度か上位入賞し、その後フォーミュラ3で苦戦、彼の速さはメカニカルトラブルでしばしば無駄となった。
それにもかかわらず、1967年に彼はチーム・ロータスのフォーミュラ2チームに移籍、ドイツグランプリでグランプリデビュー、F2クラス優勝、総合で5位という成績を上げる。1968年にはコーリン・チャップマンによってF1チームに引き上げられ、ジム・クラーク死去後のロータスF1のシートを得た。彼の契約はF2マシンのドライブは含まれていなかった。ハーツ・アンド・エセックス・エアロクラブの運営責任者であったトニー・ラドリンとの議論で、クラブのカラーで車を走らせるという取引が行われた。ロータスは車両とメカニックを供給し、ラドリンはチームマネージャーを務めた。F2チームの車両は完全なロータス仕様では無かったが、運営は総じてうまく行った。年末にチームはアルゼンチン・テンポラーダの4レースに招待される。ハーツ・アンド・エセックスチームはシリーズランキング3位となる。F1のシーズンは苦戦し、オリバーはゴールのため苦闘した。イギリスグランプリではエンジントラブルでリタイアするまでトップを走行し、シーズンで完走したのは2度、彼の最高位は最終戦メキシコでの3位であった。
ヨッヘン・リントが1969年ロータスと契約し、オリバーはBRMに移籍した。彼はBRMでの2年間を失意の内に過ごすこととなり、それは事実上、彼のグランプリキャリアを終わらせる原因となった。2年間で完走は4回のみで、ポイントを得たのは1969年メキシコグランプリでの6位と1970年オーストリアグランプリの5位のみであった。しかしながら彼は1970年シーズン、レース・オブ・チャンピオンズでは首位を走行してジャッキー・スチュワートを抑え、オランダGPやイギリスGPでは3位を走行して激しいバトルを繰り広げた。チームのボス、ルー・スタンリーはオーストリアで彼が優勝する物と考えたが、5位を期待外れな結果と考え、その後良い車はチームメイトのペドロ・ロドリゲスに与えられた。しかしながらオリバーはその後イタリアGPでもレースをリードして見せた。スタンリーはオリバーについて「良いけれども、彼が考えるほどは良くない。」と語っている[1]。BRMでのレースの大半はリタイアで終わった。メインスポンサーのヤードレーは彼が解雇されたのを知って驚き、失望した。ジャッキー・スチュワートはオリバーを大変良いGP[2]およびカンナムドライバーであると判断している。[要出典]
彼の時期における耐久レースでの最高成績はジャッキー・イクスと共にドライブしたジョン・ワイアーのガルフ・フォード・GT40による、1969年のセブリング12時間レースとル・マン24時間レースでの優勝と、ペドロ・ロドリゲスと組んで優勝した1971年のモンツァ1000kmレースである。
1969年、彼はカンナムにオートコーストからデビューし[3]、続いて ドン・ニコルズのシャドウから出走した。1971年、彼は再びF1にフル参戦しマクラーレンのサードカーを走らせた。1972年はシャドウからカンナムへの参戦に集中し、F1はイギリスGPにBRMからスポット参戦、リタイアに終わった。
1973年にシャドウはF1に参入し、オリバーはチームリーダーに指名された。シャドウ・DN1は難しいマシンであり、彼の活躍の機会はメカニカルトラブルで失われた。しかしながら、カナダでは好走し、観客の多数は彼が優勝するものと考えたが、にわか雨のためレースはピットストップが強いられることとなりラップチャートは混乱、オーガナイザーはペースカーを導入し急展開した。結果オリバーは3位に入賞、これがこのシーズンで獲得した唯一のポイントとなった。
1974年はカンナムのタイトル獲得のために集中する。彼はその後シャドウの経営にも関わるようになっていたが、フォーミュラ5000にも3シーズン参戦し、1977年にはF1にもスポット参戦、レース・オブ・チャンピオンズでは5位に入賞、スウェーデンGPでは9位となった。
アロウズ
1977年の終わりに彼はシャドウを離れ、企業家のフランコ・アンブロジオ、デザイナーのトニー・サウスゲイトとアラン・リース、エンジニアのデイブ・ウォスと共にアロウズを設立する。ドライバーは若手のリカルド・パトレーゼを起用した。
アロウズはF1史上最長の未勝利記録を持ち、382戦に出走して1勝もできなかった。しかしながら、チームは常に競争力を持つ車を提供し、フロントランナーにはなれなかったものの、しばしば有能なドライバーに活躍の場を与えた。パトレーゼ、ティエリー・ブーツェン、ゲルハルト・ベルガー、マルク・スレール、マーティン・ドネリーはその経歴の初期にアロウズをドライブしている。
1990年、オリバーはチームの株式の大半をフットワーク・コーポレーションに売却した。彼はディレクターとして留まったものの、フットワークは1993年に金融トラブルでチームから手を引いた。オリバーは再びチームを手に入れたが、資金が足りず1996年にトム・ウォーキンショウ率いるTWRに再び株式の大半を売却した。オリバーは1999年までチームに留まったが、その後残った株式を売却し、チームから手を引いた。
F1における全成績
参照
- “DRIVER: Oliver, Jackie”. Autocourse Grand Prix Archive. 2007年9月11日閲覧。
- “Jackie Oliver”. Grand Prix Racing. 2007年9月11日閲覧。
- Widdows, R. 2007. Jackie Oliver: Nearly Man. Motor Sport. 83/4 (April 2007), 84-88
- ^ L. Stanley. Grand Prix. The Legendary Years.
- ^ T.Simon. Champion Year1970)
- ^ Stucker, Mike. “VintageRPM”. Can-Am History of Shadow. VintageRPM. 2014年11月25日閲覧。
外部リンク
タイトル | ||
---|---|---|
先代 ペドロ・ロドリゲス ルシアン・ビアンキ |
ル・マン24時間歴代勝者 1969年 ジャッキー・イクスと共に |
次代 ハンス・ヘルマン リチャード・アトウッド |
先代 マーク・ダナヒュー |
カンナム 勝者 1974年 |
次代 パトリック・タンベイ (1977) |