ドーハの悲劇
ドーハの悲劇(ドーハのひげき)は、1993年10月28日[1]、カタールのドーハのアルアリ・スタジアムで行われた日本代表とイラク代表のサッカーの国際試合(1994年アメリカワールドカップ・アジア地区最終予選の日本代表最終戦)において、試合終了間際のロスタイムにイラク代表の同点ゴールが入り、日本のFIFAワールドカップ初出場が確定するまでわずかな時間を残すだけの状況から一転して予選敗退が決まった試合を指す日本での通称である。
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開催日 | 1993年10月28日 | ||||||
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会場 | アル・アリ競技場( カタール ドーハ) | ||||||
最優秀選手 | 中山雅史 | ||||||
主審 | セルジュ・ムーメンターラー |
最終予選の経過
第4戦まで
日本は、1次予選F組で7勝1分けとし、UAEを抑えて1位通過し、最終予選に進んだ。
この最終予選は、ドーハでのセントラル方式にて行われ、1次予選を勝ち抜いた6か国の総当たりリーグ戦で、上位2か国がワールドカップの出場権を得ることになっていた。
日本は初戦のサウジアラビア戦を0-0で引き分け、第2戦のイラン戦を1-2で落とした。 この時点で最下位に転落したが、第3戦の北朝鮮戦を3-0で勝利し、続く第4戦ではそれまでW杯と五輪のアジア予選で一度も勝てなかった韓国に三浦知良のゴールで1-0で勝利し、韓国に代わり首位に立ち本戦出場に王手をかけた。
イラクは1次予選でA組に参加し、6勝1分1敗で勝ち点13、中国を勝ち点1差で抑え首位で通過した。最終予選では初戦の北朝鮮戦に2-3で敗れた後、韓国戦に2-2で引き分け、イラン戦では2-1で初勝利を収め、サウジアラビア戦は1-1の引き分けを記録していた。
最終戦となる第5戦を残した第4戦終了時点の順位は以下のとおり。
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- (当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0。
- 勝ち点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。)
北朝鮮以外の5か国が勝ち点の差「1」の中で犇めいており、5か国のいずれにも本大会出場のチャンスが残されていた。
同日・同時刻キックオフとなる最終戦(第5戦)3試合の組み合わせは
となっていた。各試合の結果による勝ち点等の成績をまとめると下表のようになる。
日本 - イラク | 日本 | イラク | ||||
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勝ち点 | 得失差 | 得点 | 勝ち点 | 得失差 | 得点 | |
日本が勝った場合 | 7 | +4以上 | 6以上 | 4 | -1以下 | 7以上 |
引き分けの場合 | 6 | +3 | 5以上 | 5 | 0 | 7以上 |
イラクが勝った場合 | 5 | +2以下 | 5以上 | 6 | +1以上 | 8以上 |
サウジアラビア - イラン | サウジアラビア | イラン | ||||
勝ち点 | 得失差 | 得点 | 勝ち点 | 得失差 | 得点 | |
サウジアラビアが勝った場合 | 7 | +2以上 | 5以上 | 4 | -3以下 | 5以上 |
引き分けの場合 | 6 | +1 | 4以上 | 5 | -2 | 5以上 |
イランが勝った場合 | 5 | 0以下 | 4以上 | 6 | -1以上 | 6以上 |
韓国 - 北朝鮮 | 韓国 | 北朝鮮 | ||||
勝ち点 | 得失差 | 総得点 | 勝ち点 | 得失差 | 総得点 | |
韓国が勝った場合 | 6 | +3以上 | 7以上 | 2 | -5以下 | 5以上 |
引き分けの場合 | 5 | +2 | 6以上 | 3 | -4 | 5以上 |
北朝鮮が勝った場合 | 4 | +1以下 | 6以上 | 4 | -3以上 | 6以上 |
本大会出場(勝ち点7)
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最終予選敗退(勝ち点5以下)
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したがって、各国の本大会出場条件は次のとおりとなる。
日本 - イラク | |
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日本が勝った場合 | 【日 本】 本大会出場
【イラク】敗 退 |
引き分けの場合 | 【イラク】敗 退
【日 本】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
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イラクが勝った場合 | 【日 本】敗 退
【イラク】サウジアラビア、イラン、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
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サウジアラビア - イラン | |
サウジアラビアが勝った場合 | 【サウジアラビア】 本大会出場
【イラン】敗 退 |
引き分けの場合 | 【イラン】敗 退
【サウジアラビア】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
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イランが勝った場合 | 【サウジアラビア】敗 退
【イラン】日本、イラク、韓国の3か国のうち2か国を成績で上回る必要がある
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韓国 - 北朝鮮 (北朝鮮は敗退決定) | |
韓国が勝った場合 | 【韓国】日本、イラク、サウジアラビア、イランの4か国のうち3か国を成績で上回る必要がある ↓ 次の条件のいずれかを満たすとき本大会出場
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引き分けの場合 | 【韓国】敗 退 |
北朝鮮が勝った場合 |
第4戦終了時点で首位の日本は勝てば他会場の試合結果にかかわらず出場決定となり、日本が引き分けてかつサウジアラビアと韓国がどちらも勝った場合であっても、韓国が北朝鮮に1点差で勝利した場合には(即ち得失点差で日本と同数となる場合)、日本の総得点が韓国と同数以上であれば日本が出場権を得られるという、かなり有利な条件で日本は最終戦に臨んだ。一方、イラクは日本戦での勝利がまず必要となり、加えてサウジアラビア-イラン戦が引き分けかイランの2点差以内勝利(3点差以上の場合は得失点・総得点でイランとの争い)または韓国が北朝鮮に対し引き分けか敗れた場合、1986年メキシコ大会に続く2度目のW杯本大会出場が実現する状況だった。3位の韓国も自力出場の可能性が消滅しており、最終戦で勝利しても日本とサウジアラビアが共に勝利した場合は本大会出場ができない状況にあった。
第5戦(最終戦)
試合経過
最終戦、日本は北朝鮮戦から採用した変則3トップ気味の4-3-3の布陣を継続。韓国戦で活躍した北澤豪に替わり、出場停止明けの森保一がボランチのポジションに戻ってきた。
試合は開始5分に長谷川健太のミドルシュートがクロスバーに弾かれバウンドした所を三浦知良がヘディングで押し込み早々と先制。前半は日本が試合を優位に進めたまま終了した。
しかし、イラクは後半に入ると攻勢に転じ、55分にアーメド・ラディが粘り強いボールキープからシュートを決め1-1の同点に追いついた。日本は特に中盤の運動量が落ちてセカンドボール回収がままならなくなり、以降イラクが更にボール支配率を高めて攻勢を強めていく[2]。64分にはドリブルで抜け出したアラー・ジェベルが無人のゴールへシュートするも外すなど、イラクは何度か決定的なチャンスを掴むが得点には結びつかず。逆に日本は69分にラモス瑠偉のスルーパスをオフサイドラインぎりぎりで抜け出した中山雅史が受け、ゴール右角に決め2-1の勝ち越しに成功した。
イラク攻勢の状態が続くまま時間は経過して89分50秒、ラモスのパスをカットしたイラクはカウンターアタックを仕掛けコーナーキックのチャンスを得た。このキック前に90分を経過してアディショナルタイムに突入。ここでキッカーのライト・フセインはゴール前に直接センタリングを送らず、意表を突くショートコーナーをフセイン・カディムに渡した。フセイン・カディムは、慌てて対応に走った三浦知をドリブルで振り切りセンタリングを上げ、これをオムラム・サルマンがヘディングシュート。ボールは、見上げるGK松永成立の頭上を放物線を描いて越えゴールに吸い込まれ、同点となった(90分20秒)。イラクの同点ゴールが決まった瞬間、控えを含めた日本代表選手の多くが愕然としてその場に倒れ込んだ。その後、日本はキックオフからすぐ前線へロングパスを出すも、ボールがそのままタッチラインを割ったところで主審のセルジュ・ムーメンターラーの笛が鳴らされ、2-2の引き分けで試合終了となった。
終了後、ピッチ上の日本代表選手の多くはその場にへたり込んだまま動けず、ハンス・オフト監督や清雲栄純コーチらに声をかけられ漸く立ち上がるという状態だった。キャプテンの柱谷哲二は両手で顔を覆って号泣し、オフト監督と清雲コーチに支えられながらピッチを後にした。左サイドバックでフル出場した勝矢寿延は、今まで惨敗でのワールドカップ予選敗退のイメージがあったため、引き分けという結果で予選敗退という状況が呑み込めておらず、他の選手がピッチにへたりこむ様子を見て不思議に思ったという。
日本-イラク戦より数分早く終了した他会場の結果が、『サウジアラビア 4-3 イラン』『韓国 3-0 北朝鮮』だったため、最終順位は下表の通りとなり、サウジアラビアと韓国が本大会への出場権を獲得。得失点差で韓国に及ばず3位に転落した日本は出場権を逃した。「日本リード」を聞かされていた韓国の選手達は勝利後もうつむいていたが、「日本同点、試合終了」の結果を知ると一転して歓喜に包まれた。
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本大会出場(2位以上)
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最終予選敗退(3位以下)
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- (当時の勝ち点は勝利2、引き分け1、敗戦0。
- 勝ち点が同じ場合、得失点差、総得点、当該国間の対戦結果の順で順位を決した。)
試合結果
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放送
日本ではNHK BS1、および地上波ではテレビ東京がテレビ中継を、ニッポン放送がラジオ中継を行った。テレビ東京での当該視聴率は日本時間の深夜帯にもかかわらず、同局史上最高の48.1%を記録した。
テレビ東京の放送では現地実況が久保田光彦アナウンサー、解説は前田秀樹が務めた。東京のスタジオでは金子勝彦が司会を務め、ゲストとして釜本邦茂(当時:ガンバ大阪監督)、森孝慈(当時:浦和レッズ監督)、当時の日本代表主将・柱谷哲二の実兄である柱谷幸一(当時:浦和レッズ選手)がいた。ロスタイムの同点ゴール時に久保田は「決まった!」と言った後30秒近く言葉が出ず、日本の制作スタッフは放送事故かと慌てたという[3]。その間、解説者の前田も一言も発せず、30秒後にようやく久保田が「仕方ないですね」と発言するまで沈黙が続いた[4]。試合終了後、スタジオに画面が戻ってきても、金子、釜本、森、柱谷兄の四者とも呆然として何も言うことができず、特に柱谷は放送中にも関わらず頭を抱え込み泣いていた。森はロスタイムの同点劇について「これがサッカーなんですよ」とコメントし、金子は「サッカーの世界では、天国と地獄を見て初めて本当のサポーターになれる」との言葉を紹介した。キャプテンの柱谷哲二の兄である柱谷幸一は、金子から「お辛いでしょうけど」と促され、絞り出すように「1カ月、辛かっただろうけど、胸を張って帰ってこい」とメッセージを送った[4]。
NHK BS1の放送では実況が山本浩アナウンサー、解説は田中孝司が務めた。岡田武史と田嶋幸三がスタジオ解説、友田幸岐がスタジオ司会であった。試合終了後、岡田は言葉を詰まらせ、友田は「サッカーの怖さが出ました。何もこの試合じゃなくても良かったんじゃないかと…」とコメントした。岡田はこの4年後、1998年フランスワールドカップ最終予選中に急遽日本代表監督を引き継ぎ、ワールドカップ初出場を決めることになる(ジョホールバルの歓喜)。
ニッポン放送のラジオ中継は、実況が師岡正雄アナウンサー、解説は小谷泰介が務めた。イラクの2点目(同点ゴール)の直後に、小谷が「何ということだ……」とコメントしている。フジテレビでドーハの悲劇の映像が流れる際にはこのニッポン放送の実況音声が使われた。
登録メンバー
ゴールキーパー | ||
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1 | 松永成立 | 横浜マリノス |
19 | 前川和也 | サンフレッチェ広島 |
ディフェンダー | ||
2 | 大嶽直人 | 横浜フリューゲルス |
3 | 勝矢寿延 | 横浜マリノス |
4 | 堀池巧 | 清水エスパルス |
5 | 柱谷哲二 | ヴェルディ川崎 |
6 | 都並敏史 | ヴェルディ川崎 |
7 | 井原正巳 | 横浜マリノス |
21 | 三浦泰年 | 清水エスパルス |
22 | 大野俊三 | 鹿島アントラーズ |
ミッドフィルダー | ||
8 | 福田正博 | 浦和レッズ |
10 | ラモス瑠偉 | ヴェルディ川崎 |
14 | 北澤豪 | ヴェルディ川崎 |
15 | 吉田光範 | ジュビロ磐田 |
17 | 森保一 | サンフレッチェ広島 |
18 | 澤登正朗 | 清水エスパルス |
フォワード | ||
9 | 武田修宏 | ヴェルディ川崎 |
11 | 三浦知良 | ヴェルディ川崎 |
12 | 長谷川健太 | 清水エスパルス |
13 | 黒崎比差支 | 鹿島アントラーズ |
16 | 中山雅史 | ジュビロ磐田 |
20 | 高木琢也 | サンフレッチェ広島 |
監督 | ハンス・オフト | |
コーチ | 清雲栄純 | |
GKコーチ | ディド・ハーフナー |
評価
サッカー専門誌では、ハンス・オフト監督の作り上げた組織的サッカーが、この予選中でアジアトップレベルのサッカーを披露したとし、その功績を認めながらも、オフト監督自身の指導力の限界を指摘した。
- オフトは監督就任以来短期間でチーム力を向上させたが、レギュラーを固定してバックアップメンバーの育成を怠っただけでなく、代役候補の選手を先発で起用しなかった。その結果として、左足を亀裂骨折した左サイドバックの都並敏史の代役に、中盤が本職の三浦泰年や、主にセンターバックや右サイドバックを務めていた勝矢寿延を代役として使わざるを得ず、選手層の薄さを露呈した。
- イラク戦の後半、日本は中盤の運動量が落ちてボールを回収できず、ディフェンスラインが下がりっぱなしになりイラクの波状攻撃を浴びる状態だった。ピッチ上の選手は中盤のカンフル剤となる北澤豪の投入を望んでおり[2]、ラモスはベンチに向かって「キタザワー」とリクエストしていた[5]。しかし、オフト監督はラモスのリクエストを拒否し、福田正博と武田修宏というアタッカーを2人の交代枠に使い、結果的に劣勢を挽回する事が出来なかった。結果論にすぎないが、北澤は後に「やはり(あの交代は)間違いだったと思う」と述べている[2]。
日本サッカー協会強化委員会は同年11月5日に定例会議を開き、「修羅場での経験不足」を理由に翌1994年5月まで契約が残っていたオフト監督の解任を決定した。10日に川淵三郎強化委員長とオフト監督との間で会談が開かれ、翌11日に退任が正式発表された。
また、選手側の様々な事情も分析された。
- 同年5月に開幕したJリーグは週2回ペースの試合(同点の場合Vゴール方式の延長戦・PK戦まで戦う)が続く厳しいスケジュールで、足を疲労骨折した都並やウィルス感染で入院した柱谷など、コンディションを崩す選手が続出した。最終予選前にスペイン合宿を行なったのは、Jリーグで疲弊した選手達を休ませる目的もあったという[6]が、オフト監督とは犬猿の仲にあり柱谷による説得に応じたラモスが、大一番まで時間がないのにオフト監督が紅白戦等の実践的な練習を行わない事が理由で練習内容への不満を叫ぶ等、都並の抜けた左サイドのディフェンスが解消されなかったばかりか、皮肉にもラモスの存在する重要性がさらに増すキャンプでもあった。
- 韓国戦後、まだ本大会出場が決まった訳でもなく1分け1敗したのが祟ってあと1勝しなければならない状況であるのに、ワールドカップ予選、オリンピック予選において世界に出ようとする日本の前に常に大きな壁として立ちはだかってきたライバル国から挙げた勝利に喜び、涙を流す者もいた。キャプテンの柱谷は、「まだ終わってないんだ」と喝を入れている。しかも、対戦成績では大きく負け越していた相手に勝ったとはいえ、押し気味に進めながら1点しか奪えなかったツケが、最終戦の引き分けに繋がる形で回った。
- イラク戦のハーフタイム中、オフト監督の戦術説明を聞かず勝手に修正点を話し合っていた。ロッカーに引き上げてきた選手たちは、オフト監督が3度も「Shut Up(黙れ)!」と怒鳴らなければならない程[7]、興奮状態にあり緊張感を欠いていた。清雲コーチによれば「選手たちの会話がどこで起こっているのかわからない異様な状況」で、「そんな混乱が続く中でオフトが『U.S.A. 45min』とホワイトボード上の模造紙に書いて説明しようとしたら、後半のブザーが鳴ってしまった」という[4]。
- 後半ロスタイム突入間際、日本はカウンターから敵陣深くでボールを保持したが、武田は単純にゴール前へセンタリングを上げ、ラモスは最終ラインの裏へ浮き球のスルーパスを通そうとしてカットされた。そこからイラクの同点ゴールにつながる攻撃が始まった。オフト監督は後に「ゲームの作り方(組織戦術)は教えたが、ゲームの壊し方(試合を逃げ切る方法)は教えることが出来なかった」と語っている[8]。また、吉田光範によれば、前の韓国戦も1-0でリードした残り10分間の内容が不安定で、オフト監督は「キープ・ザ・ボール!」と声を枯らして叫んでいたという[9]。
- 解説者のセルジオ越後は「時間を稼ぐべきところで稼がなかった」と指摘し、「あの1試合だけじゃなくて、最終予選を通じて取るべきところで取らなかったり、そういうチャンスロストはたくさんあった」とチーム全体の経験不足を指摘している[10]。
- 最終予選のベストイレブンに、参加6か国では最多となる松永、柱谷、ラモス、三浦知の4名が選ばれており、表彰式に参加するよう日本サッカー協会に要請が来ていたが、当時オフト監督の通訳を担当していた日本サッカー協会強化委員会の鈴木徳昭総務担当が柱谷に確認したところ、みんなの判断で行けないとのことだったため、鈴木総務担当と川淵強化委員長、小倉純二だけで出席することとなった。鈴木総務担当は、「それはそれでそのときのどうしようもない判断だったけど、本来は結果にかかわらず、どんな悲惨なことがあったとしても、行かせなければいけなかったのかもしれない、とあの後すぐに思った」と回顧している[4]。
- また鈴木は、FIFA関係者のドイツ人から「これがサッカーだよ」という言葉を投げかけられ「こういう経験を私たちサッカー界はあと100年の間に何十回も経験しないと、本当の意味で世界を知ることは、世界と伍することはできないんだなと思いました」と語っている[4]。
対戦国イラクに対しては、本大会出場が絶望的な状況ながら試合終了までゴールを狙い続けた姿勢が評価された。選手の奮闘の理由として、イラクオリンピック委員長ウダイ・フセイン(サダム・フセインの長男)から「日本に敗れたら鞭打ちの刑に処す」と脅されていたという[11]。イラクは最終予選を通して不利な判定を受けており[12][13]、イラクが湾岸戦争の「敵国」アメリカで開催されるW杯へ出場することを阻止する配慮があったのではないかとまことしやかに囁かれた[14]。日本のフジテレビは同点ゴールを決めたオムラムらイラク代表選手数名を日本に招待し、ニュース番組でドーハの悲劇の感想を聞いたり、バラエティ番組「明石家さんまのスポーツするぞ!大放送」で芸能人らとのリベンジマッチを行わせたりもした(1994年4月8日放送分)。
多くのマスコミやファンは、ワールドカップ出場を直前で逃したにも関わらず、この結果を好意的に受け止めた。選手達を乗せたチャーター便が成田国際空港に到着すると、数百人のファンが選手達を温かく出迎えた[15]。しかし、こういった反応はワールドカップ出場をギリギリで逃した選手たちにとって複雑なものだったという[15]。松永は、「日本はサッカー先進国に向かっている途中だからこうなんだ。これがドイツやブラジル、スペインだったらこういう歓迎のされ方はしないんだろうな。これから代表を背負って戦っていく選手たちに対して、ここでブーイングされるときこそが本当の日本のサッカーのスタートなんだな」と感じたという[4]。また実際に現場で取材したベテラン記者の中には、こうした国内の反応を苦々しく思う者もいたらしい[15]。
川淵強化委員長は、この試合がテレビ放映で高視聴率を記録したというだけでなく、国民感情の振幅も大きく日本国民にサッカーの面白さを強烈に印象付けることとなり、オリンピックをも上回る最大のスポーツイベントであるFIFAワールドカップの人気を日本に定着させることになったと評価した[16]。
この試合の結果、自力での本大会出場の可能性がなかった韓国代表が本大会出場を決めたため、韓国では「ドーハの奇跡(도하의 기적)」と呼ばれている[17]。日本でも捉え方によっては「ドーハの奇跡」と呼ばれることもある[18]。
その後
この予選では中立地での対戦で本大会出場を逃した日本であったものの、次の1998年フランス大会、およびその次の2006年ドイツ大会(2002年日本・韓国大会は開催国で予選免除)の予選においては、奇しくも2大会続けて、中立地での対戦で勝利したことにより本大会出場を決めている。
U-23日本代表がアトランタ五輪アジア最終予選でサウジアラビアと対戦した際には、ハーフタイム中に選手の興奮を鎮めたり[19]、リードした後半に効果的に時間を稼ぐなどドーハの悲劇の教訓が活かされ[20]、28年ぶりの本大会出場が成し遂げられた[21]。
1998年大会のアジア最終予選においては、最終予選がホーム・アンド・アウェー方式で行われるようになったものの、アジア3位決定プレーオフは中立地での一発勝負となっており、このプレーオフに勝利して本大会出場を決めている(ジョホールバルの歓喜)。また2006年大会のアジア最終予選においては、第5節で本来であれば北朝鮮代表との試合をアウェーで行うところであったものの、前の北朝鮮のホームゲームにおいて観客の暴動があったことから、北朝鮮のホームゲーム国内開催権が剥奪され、中立地(タイ・バンコク)での対戦となった。この試合で日本が勝利したことにより、本大会出場を確定させた[22]。
ドーハの悲劇から18年後、カタールで開催されたAFCアジアカップ2011では日本代表は6試合中5試合をドーハで戦い史上初となる4度目のアジア制覇を成し遂げ、「もうドーハは『悲劇の地』では無くなった」などと言われた[23]。特に初戦のヨルダン戦では、敗色濃厚の後半ロスタイムにショートコーナーからヘディングで同点に追いつくという、まさに18年前の立場を逆にしたかのような試合展開であった。
2013年6月11日に行われた2014年大会のアジア最終予選においては、『日本[24]がドーハの地でイラク[25]との最終戦[26]に臨む』ことが話題となった(試合は1-0で日本が勝利)。
2015年1月16日に行われたAFCアジアカップ2015・グループリーグ(グループD)第2戦では、この試合で同点ゴールを決めたシュナイシェルが指揮を執るイラクとブリズベンで対戦。本田圭佑のPKの得点を守りきり、1-0で日本が勝利した。
脚注
- ^ カタール時間16時15分開始の日本-イラク戦でロスタイムにイラクの同点ゴールが決まった時刻は18時過ぎであり、6時間の時差の関係で、日本では日付が変わり10月29日の0時過ぎとなっていた。
- ^ a b c 渡辺達也 "「ドーハの悲劇」イラク戦で出場できなかった北澤豪の本音". Web Sportiva.(2013年10月15日)2013年10月14日閲覧。
- ^ 布施鋼治 "平均視聴率48.1%!ドーハの悲劇、テレビ東京の舞台裏". Web Sportiva.(2013年10月27日)2013年11月2日閲覧。
- ^ a b c d e f 一志治夫、2013、「'93・10・28の夜〜希望と蹉跌を味わった者たち〜」、『Sports Graphic Number』(839)、文藝春秋 pp. 56-61
- ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』、p186。
- ^ 飯尾篤史 "福田正博「20年前のドーハは『悲劇』じゃない」page3/5". Web Sportiva.(2013年10月27日)2013年11月2日閲覧。
- ^ 一志治夫『狂気の左サイドバック』、p182。
- ^ 後藤健生『日本サッカー史』 286頁。
- ^ 『Sports Graphics Number - ドーハの悲劇 20年目の真実』通号839号、文藝春秋社、2013年10月17日、、47頁。
- ^ ドーハの悲劇から20年、セルジオ越後氏「あれは悲劇じゃない」 サッカーキング 2013年10月28日
- ^ "フセインの息子の元影武者、「ドーハの悲劇」の背景を暴露". 映画.com.(2011年10月21日)2013年9月8日閲覧。
- ^ イラクは出場停止中だった主力選手2名が日本戦で復帰するはずだったが、試合当日朝にペナルティーの延長が決まった(杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび』、37頁)。
- ^ 69分の中山の勝ち越しゴールをベンチから見た都並は「こりゃオフサイドだ、これ、くれるか」と呟いたという(一志『狂気の左サイドバック』、p188)。
- ^ 杉山茂樹『「ドーハ以後」ふたたび』、37頁。
- ^ a b c 潮智史『日本代表監督論』 63頁。
- ^ 川淵三郎『私の履歴書』、日本経済新聞2008年2月17日
- ^ その後、大韓サッカー協会はオムラムを韓国に招待し国賓級の待遇をもてなし、韓国のテレビ番組でも英雄扱いされた
- ^ 大住良之『アジア最終予選』 189頁。
- ^ 浅田真樹 "ドーハの夜。オフトが綴った「二文字」が日本の未来を開いた". Web Sportiva.(2013年10月17日)2013年11月2日閲覧。
- ^ “マイアミの奇跡”よりも熱かった! “ドーハの悲劇”の教訓が活かされたアトランタ五輪予選・サウジアラビア代表戦2/2 フットボールチャンネル 2013年10月11日
- ^ 【元川悦子コラム】アトランタ五輪プレイバック:「28年の壁」をこじあけた日本、そして「マイアミの奇跡」 Soccer Journal編集部 2012年06月20日
- ^ “日本、W杯出場 3大会連続”. 読売新聞 (2005年6月9日). 2011年10月3日閲覧。
- ^ アジア杯優勝、もうドーハは「悲劇の地」ではなくなった (1/4ページ) - 日本経済新聞・2011年1月31日。
- ^ 前節の試合で既に本大会出場を確定。
- ^ FIFA安全規則違反により、アジア予選のホームゲーム国内開催権を剥奪。
- ^ 組み合わせの都合により、日本は最終節の対戦がない。
参考文献
関連項目
- パリの悲劇
- ヤウンデの悲劇
- メルボルンの悲劇
- ジョホールバルの歓喜(1998 FIFAワールドカップ・アジア地区第3代表決定戦 「日本vsイラン」)
- 1998 FIFAワールドカップ日本代表