軍令承行令

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軍令承行令(ぐんれいしょうこうれい)とは1945年昭和20年)の太平洋戦争敗戦以前大日本帝国海軍で作戦上の指揮権の継承序列を定めた法令である。もともとは指揮権の継承序列が一目瞭然でないと戦時に不都合であるため定められたものである。

軍医中将が砲術、水雷等担当の兵科少尉候補生に服従せねばならない」「下士官兵から叩き上げの特務大尉が兵学校出の少尉に服従せねばならない」といった風に特に昭和期以降は用兵上の様々な弊害の元凶として扱われることが多く、ハンモックナンバーと並び日本型組織としての海軍の限界を示す材料として幾らかの曲解も含め多くの文学、映像作品で登場している。1944年(昭和19年)の古賀峯一連合艦隊司令長官殉職の際には、単に連合艦隊の指揮下部隊で最も軍令承行令の序列が上であるというだけで、後方の守備部隊の長官であった高須四郎が長官代理に就任し作戦が大きく混乱した。 富岡定俊 海軍少将は(敗戦時の軍令部第1部長)「自縄自縛を絵に描いたような規則であった」と、戦後になって軍令承行を述懐している。

具体的には、階級に関係なく、部隊指揮権は以下のような順序によって承行される。

  1. 兵科将校(兵学校卒)
  2. 機関科将校(機関学校卒)
  3. 兵科予備士官(高等商船学校卒)
  4. 機関科予備士官(高等商船卒)
  5. 兵科特務士官
  6. 機関科特務士官
  7. 主計科士官(海軍経理学校卒)
  8. 主計科予備士官
  9. 軍医科士官
  10. 薬剤科士官
  11. 歯科医科士官

本規定はあくまでも作戦上の指揮権の継承序列に限定されたものであり、戦闘部隊ではない軍学校工廠などにおいて機関科将校の部下に兵科将校を配するような人事を妨げるものではなかった。また機関科大尉よりも兵科大尉の方が上位の階級であるなどと定めているわけではなかったが、若手の兵科将校の中には本規定を誤解・あるいは乱用して自分よりも上位の階級の他科将校に対して自分の方が上位であるかのように振舞う者も現れ、他科との軋轢の原因ともなっていた[1]

太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)から1944年(昭和19年)にかけて機関科の権限拡大を初めとする大改正が行われこれに合わせ諸学校制度なども1945年の敗戦に至るまで各種の改正が進められた。

軍令承行を含む海軍機関科問題の解消が日本海軍内部で進展しなかった背景に、「軍神」とされた東郷平八郎元帥の「釜焚き風情が贅沢抜かすんじゃない!」という機関科蔑視の「鶴の一声」があったとされるが、これには疑問も呈されている。

  1. ^ 雨倉孝之 『海軍オフィサー軍制物語』 光人社、1991年、204-205頁。