矢野恒太

日本の実業家

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矢野恒太(やのつねた、慶応元年12月2日1866年1月18日) - 昭和26年(1951年9月23日)は、明治期から大正期に生命保険業界の基礎を築いた実業家第一生命保険創業者。医師。日本アクチュアリー会初代代表。「相互会社の産みの親」と呼ばれ、「蒼梧」と号した。

来歴

備前国上道郡角山村(現岡山市東区)で生まれる。播磨国赤穂郡砂野庄矢野本貫とした清和源氏山県氏矢野氏の末裔と称した[1]

第三高等中学校医科(後の岡山医専、現・岡山大学)を卒業後、1890年日本生命に診査医として就職する。

しかし、1892年に経営陣との対立から退社し、安田生命(現・明治安田生命保険)の前身である共済生命保険の設立に関わり、その後、支配役となる。1897年に退社し、農商務省嘱託職員として保険業法の起草に参画し、その後、農商務省保険課長に就任する。

1902年に日本初の相互会社形式での第一生命保険を設立した。後に社長に就任し、1938年石坂泰三が社長に就任すると、自らは会長に就任した。1946年(昭和21年)に会長を退任し、1947年に息子の矢野一郎が社長に就任した。

また、第一相互貯蓄銀行(協和銀行を経て現在のりそな銀行)を設立。目黒蒲田電鉄東京横浜電鉄両社の社長も歴任。日本国勢図会を発刊した。

人物

  • 岡山県医学校時代、15歳で芸者と遊んだと友人に吹聴し、『芸者論』の著書もあるほどだが[2]、当の芸者たちからは理屈が過ぎて話が長過ぎる、と敬遠されていた[3]

蒼梧記念館

  • 田園調布にあった旧宅は1986年給田の第一生命相娯園に移築され、蒼梧記念館として保存されている。大正末期から昭和初期にかけての、和洋の建築を融合させた住宅の典型として高い価値を持つ。

栄典

脚注

外部リンク