ベロー・ウッド (空母)
艦歴 | |
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起工 | 1941年8月11日 |
進水 | 1942年12月6日 |
就役 | 1943年3月31日 |
退役 | 1947年1月13日 |
除籍 | 1960年10月10日 |
その後 | スクラップとして売却。 |
性能諸元 | |
排水量 | 11,000トン |
全長 | 189.7m |
艦幅 | 21.8m |
全幅 | 33.3m |
吃水 | 7.9 m |
最大速 | 31.6 ノット |
乗員 | 士官、兵員1,569名 |
兵装 | 40mm機銃26基 |
搭載機 |
ベロー・ウッド (USS Belleau Wood, CV/CVL-24) は、アメリカ海軍の航空母艦。インディペンデンス級航空母艦の3番艦。当初は巡洋艦ニュー・ヘヴン (USS New Haven, CL-76) として建造が行われ、1942年2月16日に艦種変更および改名が行われた。艦名は第一次世界大戦で海兵隊が激戦を繰り広げたフランスの地名、ベローウッドに因む。
艦歴
ベロー・ウッドはニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所で1942年12月6日にトーマス・ホルコム夫人(海兵隊司令官の妻)によって命名、進水し、1943年3月31日にA・M・プライド艦長の指揮下就役した。短期間の整調航海の後、ベロー・ウッドは太平洋艦隊に配属され1943年7月26日に真珠湾に到着した。
1943年 - 1944年
ベロー・ウッドは初陣でベーカー島(9月1日)攻撃に参加した後、タラワ(9月18日)、ウェーク島(10月5日、6日)への攻撃に参加、その後第50任務部隊(チャールズ・A・パウナル少将)に加わり、ギルバート諸島攻略のガルヴァニック作戦(1943年11月19日 - 12月4日)に参加した。
ベロー・ウッドは1944年に入って第58任務部隊(マーク・ミッチャー少将)に所属し、クェゼリン環礁、マジュロ、マーシャル諸島攻撃(1944年1月29日 - 2月3日)、トラック島攻撃(2月16日、17日)、サイパン - テニアン島 - ロタ島 - グアム攻撃(2月21日、22日)、パラオ - ヤップ - ウルシー環礁 - ウォレアイ環礁攻撃(3月30日 - 4月1日)、ホーランディア、ニューギニア上陸支援のためのサワル、ワクデ島攻撃(4月22日 - 24日)トラック島 - サタワン環礁 - ポナペ攻撃(4月29日 - 5月1日)、サイパン攻撃(6月11日 - 24日)、第一次小笠原諸島攻撃(6月15日、16日)、マリアナ沖海戦(6月19日、20日)、第二次小笠原諸島攻撃(6月24日)に参加した。マリアナ沖海戦で、ベロー・ウッドの艦載機は空母飛鷹を撃沈している。
真珠湾でのオーバーホール(1944年6月29日 - 7月31日)の後、ベロー・ウッドは再び第58任務部隊に加わり、グアム攻略の最終局面に(8月2日 - 10日)参加する。続いて第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)に加わり、ペリリュー島攻略支援の南パラオ攻撃(9月6日 - 10月14日)、フィリピン諸島攻撃(9月9日 - 24日)、モロタイ島上陸(9月15日)、沖縄空襲(10月10日)、北ルソンおよび台湾攻撃(10月11日 - 14日)、ルソン攻撃(10月15日、17日 - 19日)を経て、エンガノ岬沖海戦(10月24日 - 26日)にはラルフ・F・デヴィソン少将の第38.4任務群の一艦として参加した[1]。
神風の突入
10月30日、第38.4任務群はレイテ湾東方をパトロールし、レイテ島の戦いを緊急的に洋上から支援しているところだった[2]。一方、この日の13時30分、神風特別攻撃隊葉桜隊の6機がセブを出撃し、スルアン島沖にいた第38.4任務群に迫っていた。1時間ばかりの後、葉桜隊は第38.4任務群を発見。太陽を背に次々と突入してきた[3]。1機目と2機目を撃墜するが、続く3機が空母フランクリン (Franklin, CV-13) に突入。1機が命中し2機が至近に落下して、フランクリンは大火災を発生させて大破した[3]。6機目もフランクリンに突入するかに見えたが、進路を変えベロー・ウッドに突進してきた[4]。この特攻機は飛行甲板後部に激突したが、この時のベロー・ウッドの飛行甲板上は、運悪く発進準備中の飛行機で埋め尽くされていた[4]。突入時の爆発と撒き散らされたガソリンによって火災を引き起こし、飛行機に装備するため用意してあった爆弾も次々と爆発した。ベロー・ウッドの乗組員は92名が死亡または行方不明となったが、決死の消火活動と爆発物投棄を行った結果、最悪の状態から脱することが出来た。また、ベロー・ウッドの艦載機のうち、12機が焼失して14機が使い物にならなくなった[5]。ベロー・ウッドはフランクリンと共にウルシー環礁に後退し、ウルシーでの応急修理(11月2日 - 11日)の後、カリフォルニア州ハンターズ・ポイントに向けて出港する。ハンターズ・ポイントには11月29日に到着し、修理及びオーバーホールを行った。
ベロー・ウッドとフランクリンに対する神風攻撃は、前日10月29日における空母イントレピッド (USS Intrepid, CV-11) に対する初桜隊の攻撃と合わせ、高速機動部隊に対する初めての神風攻撃となった[6]。また、ベロー・ウッドとフランクリンの戦線離脱で第38.4任務群の航空戦力は半減し)、第3艦隊司令長官ウィリアム・ハルゼー大将は神風対策も兼ね、第38任務部隊の編成をこれまで4個任務群だったのを臨時に3個任務群に編成し直し[2]、11月11日に予定されていた東京空襲を中止した[7]。
1945年
修理を終えたベロー・ウッドは1945年1月20日にサンフランシスコ湾を出港し、2月7日にウルシー泊地で第58任務部隊に合流する。2月15日から3月4日までベロー・ウッドは日本本土及び南西諸島攻撃に参加、硫黄島上陸支援も行っている。さらに第5艦隊(レイモンド・スプルーアンス大将)の日本本土攻撃(3月17日 - 5月26日)、第3艦隊による攻撃(5月27日 - 6月11日)にも参加している。第31航空団をレイテ島で乗艦(6月13日 - 7月1日)させた後、再び第3艦隊に加わり、第38.1任務群(トーマス・スプレイグ少将[8])に属して最終の日本本土攻撃(7月10日 - 8月15日)を行っている。この日本本土攻撃で、ベロー・ウッドの艦載機は旭川や熊谷などの飛行場攻撃を行ったほか[9]、一部の戦闘機は7月14日の釜石艦砲射撃の直掩を行った[10]。太平洋戦争で最後に撃墜された日本海軍機は、艦上爆撃機彗星であり、これはベロー・ウッドに配備されたVF-31所属のF6Fによるものである。
1945年9月2日の日本の降伏調印式において、本艦は艦載機を東京湾上空で飛行させた。その後10月13日まで日本海域に留まり、10月28日に真珠湾に到着する。3日後、1,248名の復員兵を乗せサンディエゴへ向かう。ベロー・ウッドはそのままマジック・カーペット作戦に従事し、1946年1月31日までグアムとサイパンからサンディエゴに復員兵を帰還させた。1947年にベロー・ウッドはサンフランシスコの様々なドックでモスボール処理され、1947年1月13日にアラメダ市のアラメダ海軍飛行場で予備役として係留された。その後1953年9月5日に相互防衛援助計画の下のフランスに移管されるまで同所に保管された。
ベロー・ウッドは第二次世界大戦での戦功により殊勲部隊章および12の従軍星章を受章した。
フランス空母ボア・ベロー
1953年9月5日、ベロー・ウッドは相互防衛援助計画の下でフランス海軍に移管。ベロー・ウッドの原語であるボア・ベロー(Bois Belleau) の艦名が付けられた。
1954年4月、ボア・ベローは空母アローマンシュ (Arromanches, R95) とともにトゥーロンのフランス海軍基地を出撃し、第一次インドシナ戦争の戦場に向かった。5月20日にハロン湾に到着したが、ディエンビエンフーの戦いはすでに終わっていた。ジュネーヴ協定が7月21日に締結されると、ボア・ベローはフランス本国に引揚げていった。その後、スエズ動乱、アルジェリア戦争にも参加、1960年まで現役任務にあった。その後アメリカに返却され、1960年10月1日に除籍、スクラップとして売却された。
脚注
参考文献
- デニス・ウォーナー、ペギー・ウォーナー/妹尾作太男(訳)『ドキュメント神風 特攻作戦の全貌 上・下』時事通信社、1982年、ISBN 4-7887-8217-0、ISBN 4-7887-8218-9
- E・B・ポッター/秋山信雄(訳)『BULL HALSEY/キル・ジャップス! ブル・ハルゼー提督の太平洋海戦史』光人社、1991年、ISBN 4-7698-0576-4
- 谷光太郎『米軍提督と太平洋戦争』学習研究社、2000年、ISBN 978-4054009820
- 金子敏夫『神風特攻の記録 戦史の空白を埋める体当たり攻撃の真実』光人社NF文庫、2005年、ISBN 4-7698-2465-3
- 石井勉(編著)『アメリカ海軍機動部隊 英和対訳対日戦闘報告/1945』成山堂書店、1988年、ISBN 4-425-30121-8
外部リンク
- PA Bois Belleau R97 (USS Belleau Wood in the French Navy)
- Air Group 31 (CAG-31) was the last carrier air group to serve aboard USS Belleau Wood
- USS Belleau Wood at Nine Sisters Light Carrier Historical Documentary Project
- この記事はアメリカ合衆国政府の著作物であるDictionary of American Naval Fighting Shipsに由来する文章を含んでいます。