晁補之

これはこのページの過去の版です。桂鷺淵 (会話 | 投稿記録) による 2016年10月26日 (水) 20:01個人設定で未設定ならUTC)時点の版であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

晁 補之(ちょう ほし、1053年1110年)は、北宋時代の中国の文章家。字は無咎、帰來子と号する。蘇軾蘇轍兄弟に学び、秦観黄庭堅張耒と共に「蘇門四学士」と称された。

生涯

済州鉅野(山東省巨野県)の出身。聡明で記憶力がよく、文章がうまいところから王安国にその才能を認められる。17歳の時に父に連れられ杭州に行き、銭塘の風物を詩に詠じ、蘇軾に見いだされ広く知られるようになる。郷試・会試ともに第一位で、元豊2年(1079年)に進士となる。神宗の時代に北京国子監教授となる。元佑元年(1086年)に太学正、著作佐郎となる。紹聖元年(1094年)に知斉州となり、『神宗実録』を編修したが、間違った記述をしたという理由で応天府(現在の河南省商丘市)、ついで毫州(安徽省亳県)の通判に左遷され、哲宗の代の元符2年(1099年)にはさらに監処州(浙江省麗水市)に赴任する途中、喪(丁憂)に服し、信州(江西省上饒市)の酒税となる。徽宗の代に召されて吏部外郎・礼部員外郎中・国子編修実録検討官を拝命する。ついで河中府・湖州・密州・果州をへて、鴻慶宮の主管になる。大観年間の末に知達州・知泗州となり、まもなく没する。任城呂村に葬られた。高宗の代の建炎4年(1130年)、直龍圖閣を贈られた。

著作

陶淵明の人となりを慕い、故郷に帰來園を作り帰來子と称する。従弟の晁謙之が編んだ『雞肋集』が残されている。楚の詞論にもっとも通じ、屈原宋玉以来の賦を集め『変離騒』などの書を編纂した。

参考文献

  • 『宋史』巻444