フレデリック・ウィレム・デクラーク

南アフリカの大統領

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フレデリック・ウィレム・デクラークアフリカーンス語: Frederik Willem de Klerk1936年3月18日 - )は、南アフリカ共和国政治家。「デクラーク」は英語読みで、アフリカーンス語では「デクレルク」のように発音する。大統領(第7代)、副大統領(アパルトヘイト廃止後初代)、下院議員国民党党首(第7代)を務める。

フレデリック・ウィレム・デクラーク
Frederik Willem de Klerk ノーベル賞受賞者


任期 1989年8月15日1994年5月10日

南アフリカ共和国の旗 南アフリカ共和国
(アパルトヘイト後)
初代 副大統領
任期 1994年5月10日1996年6月30日
元首 ネルソン・マンデラ

南アフリカの旗 南アフリカ共和国
国民教育相



出生 (1936-03-18) 1936年3月18日(88歳)
南アフリカの旗 南アフリカ連邦 トランスヴァール州ヨハネスブルグ
政党 国民党(1967-1997)
ノーベル賞受賞者ノーベル賞
受賞年:1993年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:アパルトヘイトの廃止

アパルトヘイト体制の解体、アパルトヘイト関係法の全廃に大きな役割を果たした。2015年現在、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国で正式に大統領に就任した最後の白人である[1][注釈 1]

概要

生い立ち

国民党 (NP) の政治家で大統領を務めたこともあるヨハンネス・デクラーク英語版の息子として、ヨハネスブルグで生まれる。1958年にポッチェフストローム大学の法律科を卒業。

政界

弁護士を経て、1972年国民党 (NP) の国会議員に選ばれ、父の後を継いで政界入りをする。1978年に郵政相として初入閣し、その後1982年に内相、NPの旧トランスバール州代表に選ばれた。1984年からは国民教育相、白人閣僚評議会議長を務めた。

大統領

1989年2月、大統領のピーター・ウィレム・ボータの後任としてNP党首に指名され、同党の次期大統領候補に推挙、8月から大統領代行の後、9月に正式に大統領に選出された。

大統領に就任したデクラークは今までの政府(国民党)の方針を転換し、黒人達との交渉によって南アフリカの将来を決めていくといった現実的で柔軟な民主改革路線をとった。その政策方針により、アフリカ民族会議(ANC)やパン・アフリカニスト会議(PAC)、南アフリカ共産党の非合法化を解除し、ANC指導者のネルソン・マンデラを釈放した。

1990年6月には非常事態宣言も解除して、1991年2月に国会開会演説ですべてのアパルトヘイト法を廃止すると宣言し、6月には人口登録法、原住民土地法、集団地域法を廃止した。これによりアパルトヘイトが法律上なくなった1993年度、マンデラと共にノーベル平和賞を受賞した。この際には、欧米メディアを中心にスウェーデンで、正式な授賞式が行われるノーベル化学賞ノーベル生理学・医学賞などと、ノーベル賞設立時とは異なる経緯で創設されたノーベル平和賞は、ノルウェーにて授賞式が行われる事を世界各地で伝えず、事前にスウェーデン政府が通達を出したにもかかわらず、正式な理化学及び自然科学系ノーベル賞と同様の扱いをするなどし、欧米や世界カ国主要メディアが各地で誤認報道(スウェーデン王立科学アカデミーが後に抗議)が相次いだ。ノーベル賞の設立時の理念ではノーベル化学賞ノーベル生理学・医学賞などといった創設者アルフレッド・ノーベル氏の遺言に基づき、彼の残した天文学的な遺産及び利息で授与される「スウェーデン王国公認」のノーベル賞5部門は、ノルウェー市庁舎での授賞式に限られる政治的ノーベル平和賞を除いた5部門であり、またその正当性を巡り国連総会においても議論が行われる切っ掛けとなった。この時期には国際圧力に対して大きな抗議運動が南アフリカ国内で発生している。また冷戦後のノーベル平和賞授与や受賞者の言動を利用した思想の強制であり、後に「ポリティカル・コレクトネス」と名付けられた偏向報道や、各国国民ごとに異なる思想・良心の自由を侵害するジャーナリストの言動は、主にこのデクラークによるノーベル平和賞受賞後に本格化した為、当時から彼に反感を持った欧米人も多く、実際に彼自身の国政政治家としての人気も下落する事となった。アルフレッド・ノーベルが遺言で創設を指示したノーベル賞は基本的に理化学系と医学賞のみである点もほとんど報道がなく、訂正も行わずに賞賛する報道が相次いだ。その後2009年バラク・オバマ大統領就任式直後のノーベル平和賞受賞に関しても、デクラーク受賞の際と同様の誤認報道が世界各地のテレビ番組で頻発した。[1]

大統領退任後

1994年5月にマンデラ政権が発足すると第二副大統領に就任するが、1996年5月9日に連立政権から離脱して野党に転向。同6月末に第二副大統領を辞任し、翌1997年9月には国民党首を辞任して政界から引退した。

注釈

  1. ^ ただし、2014年10月から約3ヶ月間、ザンビアで白人のガイ・スコット英語版副大統領がマイケル・サタ大統領死去に伴い、暫定大統領に就任した例はある。

出典

関連項目

外部リンク

公職
先代
ピーター・ウィレム・ボータ
  南アフリカ共和国大統領
第7代:1989年 - 1994年
次代
ネルソン・マンデラ
先代
(新設)
  南アフリカ共和国副大統領
(アパルトヘイト後)初代:
1994年 - 1996年
次代
タボ・ムベキ
党職
先代
ピーター・ウィレム・ボータ
  国民党党首
第7代:1989年 - 1997年
次代
マーチナス・V・シャルクウィク