ジョン・テリー
ジョン・ジョージ・テリー(John George Terry, 1980年12月7日 - )は、イングランドのサッカー選手。元イングランド代表。アストン・ヴィラFCに所属している。ポジションはCB。
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チェルシーFCでのテリー | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ジョン・ジョージ・テリー John George Terry | |||||
愛称 | JT | |||||
ラテン文字 | John TERRY | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | イングランド | |||||
生年月日 | 1980年12月7日(43歳) | |||||
出身地 | ロンドン バーキング・アンド・ダゲナム区 | |||||
身長 | 187cm[1] | |||||
体重 | 90kg[1] | |||||
選手情報 | ||||||
在籍チーム | アストン・ヴィラFC | |||||
ポジション | DF (CB) | |||||
背番号 | 26 | |||||
利き足 | 右足 | |||||
ユース | ||||||
1991-1995 | ウェストハム・ユナイテッド | |||||
1995-1998 | チェルシー | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1998-2017 | チェルシー | 492 | (41) | |||
2000 | → ノッティンガム・フォレスト (loan) | 6 | (0) | |||
2017- | アストン・ヴィラ | |||||
代表歴2 | ||||||
2003-2012 | イングランド | 78 | (6) | |||
1. 国内リーグ戦に限る。2017年5月21日現在。 2. 2012年9月7日現在。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
FIFPro年間最優秀選手賞の守備部門に創設された2005年度から4年連続で名を列ね、UEFAチャンピオンズリーグの最優秀DF賞を2005年[2]と2008年に2度獲得、PFA年間最優秀選手賞を2005年に獲得[3]などの実績がある。
クラブ経歴
チェルシーFC
少年時代からチェルシーFCのアカデミー(下部組織)に所属した。トップチームに昇格したての頃は同じポジションにマルセル・デサイーやフランク・ルブーフがいたため出場機会はほとんどなかったが、ノッティンガム・フォレストFCへのレンタル移籍を経て2000-01シーズン、当時の監督だったクラウディオ・ラニエリに重用され出場機会が増加。2003-04シーズンには衰えが隠せなくなったマルセル・デサイーに代わりディフェンスラインを統率した。
2004年にジョゼ・モウリーニョが監督に就任するとチームのキャプテンに指名される。モウリーニョがフランク・ランパードらイングランド人と共に主将テリーに託した「率先してチームを引っ張ってほしい」という言葉通りに抜群のキャプテンシーを発揮。守っては、そのモウリーニョと共にやって来た新加入のディフェンダー・リカルド・カルヴァーリョと共にリーグ最少失点の堅陣を築いた。守備だけにはとどまらず攻撃の場面では得意のヘディングでゴールを量産した。中でもUEFAチャンピオンズリーグの決勝トーナメント一回戦FCバルセロナ戦でのヘディングゴールはチームを救う一撃となった。なお、このシーズンで自身初となるUEFAチャンピオンズリーグ最優秀ディフェンダーに選出されている。
2006年10月14日のレディング戦では、GKのペトル・チェフが試合開始早々に相手MFのスティーヴン・ハントの膝が頭に直撃し負傷退場となった上に、代わりに出場した控えGKのカルロ・クディチーニも後半ロスタイムに相手DFと接触し負傷退場となってしまった。交代枠を使い切っていたため、テリーがわずかな時間ながら代役GKとしてゴールマウスを守ることになり、自らのポジションであったセンターバックはFWのドログバが入ることになった。
2006年末から2007年の2月にかけて、腰の手術のためにチームを離脱。モウリーニョ監督はその間パウロ・フェレイラやマイケル・エッシェンをセンターバックに起用していたが、リヴァプールとのアウェー戦では0-2で完敗するなど守備の安定感を欠き、テリーの偉大さを証明する結果となった。2月3日に行われたチャールトン・アスレティックとのアウェー戦で終了間際に交代でピッチに登場し、約一ヶ月ぶりの復帰を果たす。翌週のミドルズブラではスターティングメンバーに復帰し、以前と変わらぬ安定したプレーを見せた。
2007-08シーズンのマンチェスター・ユナイテッドとのチャンピオンズリーグ決勝は、両チーム譲らずPK戦に突入した。マンチェスター・ユナイテッドで三番目のキッカーを務めたクリスティアーノ・ロナウドのキックをペトル・チェフが止め、決めれば優勝という状況で5番目のキッカーであったテリーに順番が回ってくる。しかし降りしきる雨によってぬかるんだピッチに足をとられたテリーは、ボールをポストに当ててしまい失敗。その後チェルシーで7番目のキッカーを務めたニコラ・アネルカのキックをエトヴィン・ファン・デル・サールが止め、結局マンチェスター・ユナイテッドに敗れた。テリーは涙を流し悲嘆にくれ、その後チームのホームページ内で謝罪をした。しかし「彼が居なければ我々は決勝に勝ち進むことは出来なかっただろう」とランパードが語るように擁護の声も多かった。 それを裏付けるように、このシーズンで自身二度目となるUEFAチャンピオンズリーグ最優秀ディフェンダーに選出された。
2011-12シーズンのチャンピオンズリーグでは、準決勝でのバルセロナ戦で退場処分を受け、ファイナル出場はならなかったものの、チームは因縁のPK戦でバイエルン・ミュンヘンに勝利し、ついに悲願のチャンピオンズリーグ制覇を果たした。
2014-15シーズン、10月18日クリスタル・パレス戦では、チェルシーのキャプテンとして500試合出場を達成した。リーグカップファイナルでは、マンオブザマッチに選ばれる活躍で、優勝に貢献した。
2016-17年シーズン、コンテ監督就任後、開幕戦から数試合はセンターバックのレギュラーを務めたが、怪我により離脱、レギュラーポジションを失い、4月17日今シーズン限りでチェルシーからの退団を発表した。ワットホード戦では、先発出場を果たしゴールを決めた[4]。 シーズン最終節ホームゲームのサンダーランド戦では、先発出場し背番号と同じ前半26分までプレー、スタンディングオベーションでケーヒルと交代し、チェルシーでのプレーを終えた[5]。
アストン・ヴィラFC
2017年7月3日、イングランド2部のアストン・ヴィラFCにフリーで加入した。背番号はチェルシー時代と同じ26番。移籍の際、イングランドの1部リーグからもオファーがあったが、テリーは「(1部リーグで)チェルシーと対戦することは精神的に乗り越えられない。」と新天地に2部リーグのチームを選んだ理由を説明した。[6]
代表経歴
代表初出場は、2003年6月のセルビア・モンテネグロとの親善試合。
EURO2004にも代表入りし、出場停止中だったリオ・ファーディナンドに代わり3試合に出場した。
2006 FIFAワールドカップではソル・キャンベルに代わりレギュラーに定着、リオ・ファーディナンドとともにイングランドの堅守を支えた。
この後、デビッド・ベッカムに代わってイングランド代表のキャプテンを務めていたが、2010年2月、不倫疑惑が浮上し、ファビオ・カペッロは、テリーを主将から解任した。
2010 FIFAワールドカップのグループリーグ第3節におけるスロベニア戦において、後半67分に、相手FWのミリヴォイェ・ノヴァコヴィッチのシュートをスライディングでブロックした直後、なおもゴールに迫るズラトコ・デディッチのシュートに対し、頭部からダイブしてのブロックを試みる。結果的に自身のブロックは失敗したものの失点を免れ、この勇敢なプレーは高い評価を受けた。
2011年3月にカペッロにより再び主将に任命された[7]。
2012年2月3日、前年10月23日の対クイーンズ・パーク・レンジャーズFC戦でアントン・ファーディナンドに対して人種差別的な発言をしたという疑惑により、FAによって主将をはく奪された。これに対してカペッロが不満を示し、代表監督を辞任するという事態に発展した。その後、2012年7月に行われた人種差別発言容疑の裁判では無罪となった。
2012年9月23日、代表引退を表明した[8]。
その他
- チェルシーの下部組織に入団する前はウェストハムの下部組織に所属していた。それ以前にはセンラブFCという少年チームに所属しており、中盤でプレイしていた。その時のチームメイトにはボビー・ザモラ、レドリー・キング、ポール・コンチェスキー、ジェイロイド・サミュエル、1つ下の年代にジャーメイン・デフォーら、のちにプレミアリーグでプレイするメンバーが多数所属していた。
- 敵味方関係なく相手のネーミングに臆しない所があり、新人の頃に、不甲斐無いプレーをしたジャンフランコ・ゾラに怒鳴ったことがある。
- プレイステーション2でしばしば遊ぶという。その熱中ぶりはチームメイトを家に招き、自身がイメージキャラクターにもなった、コナミのウイニングイレブンのパーティーを開くほど(しかもトロフィーまで作っている)。因みにこのパーティではチームメイトだったグレン・ジョンソンとジョー・コールがそれぞれ優勝した。
- 現在の妻とは学生時代から10年以上の交際を経て、07年6月に結婚。双子の男女子がいる。
- 前述の2006年末の腰の手術で椎間板の一部を除去、クラブ側からは約1ヶ月の離脱という発表があったが、手術翌日には軽いランニングをこなしてしまった。
- 2006-07シーズンカーリングカップ決勝アーセナルFC戦は直前の負傷で出場が危ぶまれていたが無事に出場。しかし、コーナーキックからの混戦でボールを頭で押し込もうとして、ボールをクリアしようとしたアブー・ディアビの蹴りをまともに顔面で受け、気絶してしまった。[9]応急処置の後に病院に運ばれたが、その後無事に優勝セレモニーに参加している。
- 実兄(ポール・テリー)もプロサッカー選手。2011-12シーズンはカンファレンス・サウスのサロックFCでプレーしている。
- 前述のチャンピオンズリーグ決勝戦でのPK失敗を皮肉られたこのようなものまで現れた。
- 気迫に満ちたプレーが特徴であり、同僚のフランク・ランパードをして「男の中の男("a man's man")」と称された[10]。
タイトル
クラブ
- UEFAチャンピオンズリーグ:2011-12
- UEFAヨーロッパリーグ:2012-13
- プレミアリーグ:2004-05, 2005-06, 2009-10, 2014-15, 2016-17
- FAカップ:1999-00, 2006-07, 2008-09, 2009-10, 2011-12
- フットボールリーグカップ:2004-05, 2006-07, 2014-15
- FAコミュニティ・シールド:2005, 2009
個人
- PFA年間最優秀選手賞:2004-05
- PFA年間ベストイレブン:2014-15
脚注
- ^ a b “Chelsea FC profile” (英語). chelseafc.com (2008年7月16日). 2010年1月4日閲覧。
- ^ “Best Defender 2005” (英語). uefa.com (2005年7月1日). 2010年1月4日閲覧。
- ^ “Terry claims player of year award” (英語). BBC Sport (2005年4月24日). 2010年1月4日閲覧。
- ^ “Chelsea celebrated their Premier League title triumph with a hard-earned victory over Watford in an ill-tempered but thrilling encounter at Stamford Bridge”. BBC. (15 may 2017) 21 May 2017閲覧。
- ^ “Terry says goodbye”. BBC. (21 may 2017) 21 May 2017閲覧。
- ^ http://web.gekisaka.jp/news/detail/?220292-220292-fl
- ^ 主将復帰のテリー、代表の勝利に集中Goal.com 2011年3月22日
- ^ “テリーがイングランド代表引退”. Goal.com (2012年9月24日). 2012年9月24日閲覧。
- ^ [1]
- ^ Fifield, Dominic (22 May 2008). “Terry was a stand-in for key penalty miss”. The Guardian (London) 22 May 2008閲覧。
関連項目
外部リンク
- Official Chelsea profile
- John Terry – FIFA主催大会成績
- John Terry - Soccerbase
- TheFA.com profile
- BBC profile
- England Profile and Record