啓蒙思想
啓蒙思想(けいもうしそう、英: Enlightenment, 仏: Lumières, 独: Aufklärung)とは、理性による思考の普遍性と不変性を主張する思想。その主義性を強調して、啓蒙主義(けいもうしゅぎ)とも言う[1]。ヨーロッパ各国語の「啓蒙」にあたる単語を見て分かるように、原義は「光で照らされること(蒙(くら)きを啓(あき)らむ)」で啓蒙思想が主流となっていた17世紀後半から18世紀にかけての時代のことを啓蒙時代と言う。
定義と特徴
彼女のサロンには著名な啓蒙思想家が出入りしていた
啓蒙思想はあらゆる人間が共通の理性をもっていると措定し、世界に何らかの根本法則があり、それは理性によって認知可能であるとする考え方である。方法論としては17世紀以来の自然科学的方法を重視した。理性による認識がそのまま科学的研究と結びつくと考えられ、宗教と科学の分離を促した一方、啓蒙主義に基づく自然科学や社会科学の研究は認識論に著しく接近している。これらの研究を支える理論哲学としてはイギリス経験論が主流であった。
啓蒙主義は科学者の理神論的あるいは無神論的傾向を深めさせた。イギリスにおいては自然神学が流行したが、これは自然科学的な方法において聖書に基づくキリスト教神学を再評価しようという考え方である。この神学は神の計画は合理的であるという意味で既存の聖書的神学とは異なり、啓蒙主義的なものである。自然神学の具体例としてはイギリスのバーネットをあげることができる。バーネットは聖書にある(ノアの方舟物語における)「大洪水」を自然科学的な法則によって起こったものであると考え、デカルトの地質学説に基づいて熱心に研究した。また啓蒙主義の時代には聖書を聖典としてではなく歴史的資料としての文献として研究することもおこなわれた。キリスト教的なを導入することがおこなわれるようになった。
歴史
イギリス
17世紀後半にトマス・ホッブズやジョン・ロックが展開した経験論的な認識論や道徳哲学、理性・自然法・社会契約的な政治思想が、イギリス及び西欧における啓蒙思想・啓蒙時代の幕開けとなる。
スコットランド
スコットランドにおける啓蒙思想は、ジョン・ロックの思想を第3代シャフツベリ伯爵経由で継承したフランシス・ハッチソンに始まる。彼の道徳哲学は、イギリス経験論の最後に列せられるデイヴィッド・ヒュームや、古典派経済学の祖であるアダム・スミスにも影響を与える(道徳感覚学派(モラルセンス学派))。
また、ヒュームの懐疑論に対抗する形でスコットランド常識学派(コモンセンス学派)という一派も形成され、啓蒙思想の一翼を担った。
フランス
18世紀にイギリス
ドイツ
ドイツの啓蒙思想は、クリスティアン・ヴォルフ等によって整備され、イマヌエル・カント等によって発展された他、ゴットホルト・エフライム・レッシングのような人物も加わりつつ形成された。
啓蒙主義の諸相
政治思想
しかしロックはこの主権を国民の代表が参加する立法機関によって規定されるものとした。すなわち立法権が主権である。そしてこの立法機関は人民の信託により成立し、決定は多数決によるとされた。同時に主権が国民の意思に反する場合は抵抗権を行使することができると説いた。また清教徒革命の宗教性を批判して宗教的寛容を主張したロックは、国家論においてもその立場を主張している。
こののちジャン=ジャック・ルソーによって啓蒙主義的な国家論が大成される。ルソーは『社会契約説』において、ロックよりも分析をすすめ、国民と政府を機構的に分離させ、主権を国民に設定した。そのためルソーにおいては主権に対する抵抗権は存在しない。政府は主権を保持していないので、国民はよりラディカルな姿勢で政府転覆をはかることが可能である。またルソーの理論に特徴的なことは、ロックにおいて見られた永続的な立法機関が存在しない。立法は人格を備えた立法者によっておこなわれるとされ、このような人格的な立法はライフ・サイクルを伴う。つまり政治的存在である国家は必ず堕落すると考えられていたのである。このようなルソーの理論の特徴はフランス革命を理論的に準備したといえる。
さてこのような主権概念に大きく依存した国家観は、ルソーの思想がフランス革命を準備したにせよ、啓蒙思想の時代でさえすでに時代遅れのものと考えられていた。ヴォルテールは社会契約説を歴史的事実として認めていないし、彼は政治的な平等主義を認めていない。ヒュームは国家形成の契機としての社会契約を完全に否定して、個人に社会性を調達するものは共感であり、実践の世界ではあらゆる物事は慣習的な、したがって社会的な基盤をもつと考えた。
また国家理性としての主権概念も絶対的な地位から転落していく。マイネッケが指摘しているように、国家理性の利己主義を法や道徳の要求と一致させようという啓蒙主義の試みは基本的に不毛であった。啓蒙主義的政治思想が明らかにした国家理性と国民の道徳意識との乖離は啓蒙主義的な国家観の限界を示し、現実的にはフランス革命の進展に伴って保守主義の立場から深刻な批判が加えられることになる。日本の憲法論や天皇機関説にも大きな影響を残した19世紀の国家学者イェリネックは『一般国家学』のなかで主権概念を国家権力それ自体ではなく、その一部としている。
倫理思想
ロックが『人間悟性論』によって観念の生得性を否定したことは倫理思想においても大きな影響を及ぼした。ロックにおいては倫理学的本質が実在的性質を持ち、経験的に把握されると説かれた。これは純粋理性と実践理性による推理を同質なものと見なす素朴な考え方に基づいており、理性レベルにおける良心の共有というような曖昧な証明にとどまっている限り、認識論の深化によって糾弾されるべきであった。
実際啓蒙主義が純粋理性的認識と実践理性的認識を等価値にしていたことは、倫理的な問題をしばしば機械論的人間論に還元してしまったり、社会による人間疎外の問題にしてしまった。純粋に道徳的価値が議論されることは稀であった。モーペルテュイは『道徳哲学試論』のなかで快と不快によって量的にあるいは幾何学的に道徳的価値が判断可能であるとした。またヴォルテールはしばしばパスカルの懐疑論を批判したが、積極的な倫理思想を展開することが出来ず、現実肯定的に「寛容」を主張するにとどまった。パスカルに比べると啓蒙主義の倫理思想は概して表層的であった。
ヒュームは『人性論』においてロックの経験論的立場を徹底させ、あらゆる観念の理性による基礎付けを否定した。実在的本質と理性的推理の間に連関はなく、あるのはただ原因と結果のみであり、一般に理性により普遍で不変とされていたその推理過程は、一種のである。ミルはベンサムの快楽と苦痛による単純な理論を批判して、勇気や誠実といったような質的な評価も考慮すべきと述べた。また道徳的制裁としてベンサムが法律による規制などの外部的制裁を重視したのに対し、ミルはヒューム的で内面的な良心を設定し、外部的制裁以上に重要なものであると述べた。
功利主義は経験論的な伝統に立っており、先験的な超越論道徳論には批判的でその意味においてイギリス経験論の正統な後継者であった。また方法論的には心象を重視する心理学的立場をとった。
イマヌエル・カントはヒュームによって打ち立てられた純粋理性と実践理性の分析的立場を継承し徹底した。彼はヒュームに従って純粋理性を否定した。すなわち『純粋理性批判』によって純粋理性の外界である物自体を想定し、それを経験則から分離した。一方で実践理性には物自体や経験則とは別個に実践主義的な原理を想定し、それを格率と名付けた。この格率は個別的に個人に存在するものであるが、同時に何らか普遍的な道徳法則との同一性を目指すものと規定した。カントは普遍的な道徳法則とは、ある行為に対して無条件的に「こうしろ」と命令する定言的命令にあるとした。普遍的な道徳法則の行為主体は目的自体として物自体と同じように個人の実践理性(すなわち格率)の外側に設定した。カント以前の道徳哲学は理性主義を取るにせよ、必ず個人の内面に道徳的原則を設定していたが、カントによって目的自体(定言的命令として表現される)と格率という形で分離が果たされ、同時に不可知論的立場が設定されたため、啓蒙主義的理性主義は道徳哲学からも追放されるに至った。
歴史研究
18世紀が「非歴史的」な世紀であったというロマン主義の主張は正しいものではない。啓蒙思想は諸国家の歴史を等価値にある種の法則性のなかに還元しようとしたが、それは啓蒙主義の「非歴史」性の証明にはならない。なによりギリシャ・ローマの古典古代に対するこの時代の関心の高さは逆に啓蒙主義の「歴史性」を裏付けている。(詳細は啓蒙主義の歴史記述を参照)
歴史学歴史観に終止符を打った。彼はライプニッツのモナド論に影響されて、個々の歴史的事実を球になぞらえ、球が重心を持つように、個々の歴史的事実も核心を持つと説いた。
経済思想
啓蒙主義の具体的成果で最大のものの一つである百科全書派による百科事典『百科全書』が、「科学と技術と技法の理性的な辞書」と自己を定義づけていることは、産業的なもの、経済的なものに対する啓蒙主義の関心の高さを物語経済社会を設定し、公権力と経済社会を二元的に分離したことにより、経済社会の法則性に立脚した古典経済学を確立した。また生産物の価値が希少性とそれに費やされた労働によるとし、労働価値を根拠づけた。
このような古典経済学は生産の要素として、土地と資本、労働を措定し、それぞれ地主、資本家、労働者という階級を設定していくことになる。ここでは啓蒙思想において顕著であった平等主義はもはや完全に消滅し、万人に平等な事実として階級制度の必然性を提示した。
解放思想
啓蒙思想の理性主義は人種問題や人間の未開状態に対する問題といったような差別的な問題を育んだ一方、平等主義的な解放思想を生んだ。
レッシングは戯曲『賢者ナータン』において、ユダヤ人のナータンを主人公としてその美徳を強調し、偏見からの脱却を説いた。レッシングと親交のあったユダヤ人の哲学者メンデルスゾーンはユダヤ教とキリスト教の信仰の違いが人間的価値に差異をもたらすものではないとしてユダヤ人の法的解放を訴える一方、閉鎖的なユダヤ教の側にも改革の必要性を感じ、ユダヤ教内部での啓蒙活動である「ハスカラー」を展開した。
フランス革命啓蒙主義的な道徳はキリスト教的な道徳と同質なものであった。
イギリスのウィルストンクラフトは『女性の権利の擁護』を著した。彼女はこの著作の中で教育制度の改革によって女性の地位向上が図られるべきだと述べた。フランスの劇作家グージュはフランス人権宣言が男性の権利のみを擁護したにすぎないとして批判した。
黒人奴隷の問題も啓蒙思想の批判に晒された。ウィルストンクラフトやグージュは黒人奴隷と女性問題を関連のあるものとして扱っているし、ヨーロッパやアメリカでも反奴隷制協会といったような組織がつくられた。とはいえ、黒人奴隷問題や女性解放運動は啓蒙思想において主流を占めることはなかった。
啓蒙思想の展開
啓蒙思想は17世紀イギリスではじまった。
一般に、プロイセンのフリードリヒ大王は啓蒙専制君主の典型とされる。この絵では、甥の息子のフリードリヒ・ヴィルヘルム3世の前で書き物をしているが、壁に掛けられたポートレートは文通相手であった啓蒙思想家、ヴォルテールのものである
ヴォルテールの「哲学書簡」やモンテスキューの「法の精神」により、啓蒙主義の考え方はフランスに渡り、後にフランスの絶対王政を批判するのに用いられた。 ハプスブルク家のマリア・テレジア女帝、プロイセン王国のフリードリヒ大王、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世などが実践している。
18世紀に入り、
- エルンスト・カッシーラー、中野好之訳 『啓蒙主義の哲学』ちくま学芸文庫上・下、2003年、ISBN 4480087710、ISBN 4480087729
- セルゲイ・カルプ編、中川久定・増田真監訳 『十八世紀研究者の仕事 知的自伝』
- 叢書ウニベルシタス906 法政大学出版局 2008年
- ロイ・ポーター 『啓蒙主義』 見市雅俊訳 <ヨーロッパ史入門>岩波書店 2004年
- J.H.ブラムフィット、清水幾太郎訳『フランス啓蒙思想入門』 白水社、1985年、復刊2004年
- ピーター・ゲイ 中川久定ほか訳 『自由の科学 ヨーロッパ啓蒙思想の社会史』ミネルヴァ書房全2巻 1986年
- 市川慎一著『啓蒙思想の三態 ヴォルテール、ディドロ、ルソー』新評論 2007年
- 大槻ISBN 4000051849
- 河野健二著『フランス革命小史』岩波新書、1959年
- 水野正一他編著『現代経済学』中央経済社、1989年
- J・K・ガルブレイス著、鈴木哲太郎訳『経済学の歴史』ダイヤモンド社、1988年
- 弓削尚子著『世界史リブレット88 啓蒙の世紀と文明観』山川出版社、2004年
脚注・出典
関連項目
外部リンク
- Enlightenment - スタンフォード哲学百科事典「啓蒙思想」の項目。