伊良部秀輝
伊良部 秀輝(いらぶ ひでき、1969年5月5日 - 2011年7月27日)は、兵庫県尼崎市出身のプロ野球選手(投手)。右投右打。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 兵庫県尼崎市 |
生年月日 | 1969年5月5日 |
没年月日 | 2011年7月??日 |
身長 体重 |
193 cm 108 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1987年 ドラフト1位 |
初出場 |
NPB / 1988年5月7日 MLB / 1997年7月10日 |
最終出場 |
MLB / 2002年7月12日 NPB / 2004年6月11日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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経歴
プロ入り前
沖縄県コザ市(現在の沖縄市)生まれ[1]、兵庫県尼崎市育ち[2]。父親は在日米軍兵士であるアメリカ人、母親は日本人だが、父親は間もなく帰国した。常光寺小学校[3]、若草中学校を卒業後、香川県の尽誠学園高等学校に進学。1986年と1987年の全国高等学校野球選手権大会に出場。
1987年のドラフト会議でロッテオリオンズが1位指名で交渉権を獲得し、契約金5000万円、年俸500万円(金額は推定)で入団合意した[4]。
ロッテ時代
入団1年目から一軍公式戦に登板。2年目には西武ライオンズ(西武)の清原和博との対戦で球速156km/hを記録。起用法については先発・リリーフなど一定ではなかった。
1993年5月3日の西武戦で清原との対戦時に158km/hをマーク[5]。以後、清原和博との対決は「平成の名勝負」とうたわれ、シーズン後半から投球のコツを掴み7連勝を記録した。起用法もローテーション投手として固定されるようになった。また日本ハムファイターズ監督の大沢啓二がマスコミ相手に「幕張の浜で伊良部クラゲに刺された、イテテテ…」と言ったことから「伊良部クラゲ」の異名がつく[6]。しかし伊良部本人は、真夏以降にしか活躍できないというマイナスの意味から、伊良部クラゲと呼ばれることを非常に嫌っていた。
1994年、オールスターゲームに初選出され、シーズンも最多勝と最多奪三振のタイトルを獲得[7]。9月28日の日本ハム戦では大島康徳の引退試合の対戦投手で大島は伊良部から2安打打っている[8]。
1995年、新監督に就任したボビー・バレンタイン指揮の下小宮山悟、エリック・ヒルマンとともに先発投手陣三本柱として、チームの2位躍進に貢献。最優秀防御率と2年連続の最多奪三振のタイトルを獲得した[9]。また4試合連続2ケタ奪三振も2年連続で記録している。
1996年は2年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得[10]。一方で、降板指令に怒ってグローブと帽子をスタンドに投げ入れるなど、トラブルも多かった(この降板指令直後、当時GMであった広岡達朗に「打たれるのは闘争心が無いからだ!!」と翌日のサンケイスポーツで言われたと記事にされていたりもした)。
同年オフにメジャーリーグへの移籍希望を表明。球団側はサンディエゴ・パドレスに伊良部の保有権を永久的に譲渡する契約を交わした。それに対し伊良部は「ピンストライプのユニフォームの重さというのは野球を経験した者にしか分からない」と主張しあくまでニューヨーク・ヤンキースの入団に拘り、代理人の団野村を雇って対応。大型トレードを仕掛け、最終的に三角トレードという形でヤンキース入団を果たし、4年1280万ドルで契約(ヤンキース史上初の日本人メジャー契約)した。この時、取材陣に対し伊良部は「アンタら凡人にミケランジェロの気持ちが解るか?オレはミケランジェロなんだよ」という言葉を発し、一部から顰蹙を買う(伊良部メジャーリーグ移籍騒動)。 実際には生き別れとなった父親を見つけるには、メジャー屈指の名門チームであるヤンキースでプレーするのが最善と考えていたためだが、伊良部本人はこのことを最後までかたくなに否定し続け、また、自身の父親がアメリカ人であることは知らなかったと虚偽の発言までしていた[11][12][13]。
ヤンキース時代
1997年5月にヤンキースへ入団。ヤンキース史上初の日本人メジャー選手だった。NPB/MLBを交えた大騒動を経て入団したため、メジャー初登板初先発となった7月10日のデトロイト・タイガース戦では通常の2倍の観客が詰めかけた。このデビュー戦では、6回2/3を5安打2失点9奪三振の投球でメジャー初勝利[14]で日本人初の初登板初勝利を達成した。オーナーのジョージ・スタインブレナーからは「和製ノーラン・ライアン」と称された。しかし、2試合目は5回5失点、3試合目となった7月20日の試合では6回2/3を6失点で、降板するときにブーイング中のファンに向けてツバを吐きかけてマスコミを賑わせた[15]。その後も成績は向上せず、8試合目の先発を終えた時点で防御率は7.98となり先発を外される[16]。さらに、救援に回った最初の試合である9月5日も9失点で敗戦投手となり、スタインブレナーが「イラブにはもう期待しないよ」と述べるほどであった[15]。
1998年はスプリングトレーニングで右ひじを痛めたことにより100球の球数制限を指示されるも、開幕からローテーションの一角を担う。5月下旬には防御率リーグトップに立ち、5月は4勝1敗、防御率1.44、WHIP1.05の成績で月間MVPを受賞。6月に調子を落としオールスター選出はならなかったものの、14試合の先発で6勝3敗、防御率2.91、WHIP1.23の成績で前半戦を折り返す。しかし後半戦は1試合のリリーフ登板を含む15試合の登板で7勝6敗、防御率5.21、WHIP1.35と調子を落としポストシーズンでの登板はなかったが、チームはワールドシリーズを制覇した。
1999年、スプリングトレーニング最終日の試合で一塁ベースカバーを怠り、スタインブレナーから「彼は太ったヒキガエル。一塁カバーを怠るなんてありえない。ヤンキースの一員としてあるまじき失態だ。体重252ポンド(114.3キログラム)なんて愚かとしか言いようがない」と言われ、さらにキャンプ地への居残りを命令された[17]。その後スタインブレナーは態度を和らげたものの、開幕当初はリリーフとして起用。5月2日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で先発に復帰。7日のシアトル・マリナーズ戦ではマック鈴木との史上初の日本人選手同士による先発が実現し、7回を4安打1失点5奪三振の投球で勝利投手となる。13日のアナハイム・エンゼルス戦では長谷川滋利との投げ合いもあった。7月は4勝0敗、防御率2.64、WHIP1.08の活躍でキャリア二度目の月間MVPを受賞。ヤンキースタジアムでの試合で一塁ベースカバーに入りアウトを取った際にはスタンディングオベーションが起こった。しかし8月中旬から5連敗を喫し、後半戦は1試合のリリーフ登板を含む15試合の登板で5勝4敗、防御率5.60、WHIP1.50の成績に終わる。ポストシーズンではボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦の3回無死一塁の場面に登板したが、4回2/3を13安打1本塁打8失点と打ち込まれた。
エクスポズ時代
1999年12月22日にテッド・リリー、クリスティアン・パーカー、ジェイク・ウエストブルックとのトレードでモントリオール・エクスポズへ移籍。ヤンキースと結んだ残りの契約に加え、1年250万ドル+出来高での翌々年の契約も延長した。地元記者に、「エクスポズもピンストライプだから良かったじゃないか」と皮肉を言われる[要出典]。
2000年は開幕から調子が上がらず、4月26日のサンディエゴ・パドレス戦後に右ひざ半月板損傷が発覚して手術を受ける。7月27日のニューヨーク・メッツ戦で復帰するも、試合後に右ひじ遊離軟骨が発見され8月15日に手術を受けシーズンを終了。
2001年のスプリングトレーニングで右ひざと右ひじの痛みを訴え故障者リスト入りして開幕を迎えた。5月31日のフィラデルフィア・フィリーズ戦で復帰するも、6月17日にひじ痛が再発。靭帯部分断裂と診断されたが手術は回避しリハビリを続けていたが、8月26日に遠征先でチームメイトと食事をした際に酒を飲みすぎ、意識不明となって病院に搬送されたことが原因で29日に7日間の謹慎処分を命じられ、9月6日に解雇された。オフにはプエルトリコのウィンターリーグに参加し5勝3敗、防御率2.34の成績で最優秀投手賞と右投手ベストナインを受賞。
レンジャーズ時代
2001年12月27日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結んだ。
2002年はスプリングトレーニングに招待選手として参加し、リリーフとして開幕メジャー入りを果たす。4月6日のアナハイム・エンゼルス戦では朴賛浩の故障に伴い初先発。13日のシアトル・マリナーズ戦ではイチローとメジャー初対決し3打席を右前安打、三ゴロ、遊ゴロに抑えた。17日のエンゼルス戦では3点リードの9回に登板し、キャリアでも9年ぶりとなるメジャー初セーブを記録。以降クローザーとして5月中旬まで1勝10セーブ、防御率0.64、WHIP0.92と好投を続け、地元紙からは「球団史上に残るクローザー」とも呼ばれた[18]。しかし6月から防御率8.44、WHIP1.68と調子を落とし、7月15日に肺血栓が見つかりシーズンを終える。
阪神時代
2002年12月7日に阪神タイガースと1年2億円で契約した。
2003年、監督の星野仙一は伊良部に抑えを任せたかったが、伊良部本人の希望により先発組となった。この年はオールスターゲームにも1996年以来7年ぶりに選出され、ロッテ時代の古巣の本拠地千葉マリンスタジアムでの第2戦に先発し、3回無失点の好投を見せ優秀選手賞を受賞した。そしてシーズンでは13勝を挙げ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献。しかし、後半戦は球威が落ちて勝ち星は伸びなかった。日本シリーズでは第2戦と第6戦の2試合で先発するも、福岡ダイエーホークスの機動力に翻弄され、いずれも敗戦投手となった。
2004年は開幕早々に前年の日本シリーズで露呈したセットポジションでの欠点(盗塁を防ぐ牽制が下手な点)を衝かれ、登板数は3試合のみ、防御率は13.11という不調もあって、同年オフの10月5日に戦力外通告を受けた。
引退・現役復帰
2005年3月上旬に現役を引退後に再び渡米し、グリーンカード(外国人永久居住権)を取得して実業家に転身した。高校時代の友人と共同で、カリフォルニア州ロサンゼルスでうどんのフランチャイズチェーン「SUPER UDON」を開業する。当初は人気店だったが、その後閉店した。2008年8月には大阪市北区のバーでクレジットカードが使用できないことに腹を立て、店舗の破壊および店長を暴行した容疑で現行犯で逮捕された。伊良部は10月16日に書類送検されたが、不起訴処分となった。この件について団野村の著書「伊良部秀輝〜野球を愛しすぎた男の真実」によると、店側が伊良部のカードをスキミングしようとしていたことが原因であり、後日店側がスキミングを行っていたことが明らかになったという[19]。
TVドキュメントによると、伊良部は引退した要因の一つであった膝の痛みが、かかとを浮かせた投球フォームから地に付けたフォームへと改良することで消えたことから、現役復帰を目指しトレーニングを開始した。
2009年4月27日、北米独立リーグ・ゴールデンベースボールリーグのロングビーチ・アーマダに入団(月給1,500ドル)。5年ぶりに現役に復帰し、初登板初先発で勝利投手になった。8月、四国・九州アイランドリーグの高知ファイティングドッグスに入団(月給16〜18万円)したが、同年9月、右手首腱鞘炎で全治3週間と診断されシーズン中の復帰が困難となり、伊良部側の希望により契約解除となり退団した。伊良部の高知での成績は2試合(12イニング)に登板して0勝0敗、6奪三振11四死球で防御率5.25であった。
2010年1月19日、伊良部はブログで2度目の引退を表明した。さらに5月には飲酒運転の疑いでロサンゼルス郊外で逮捕された[20]。
死去
2011年7月27日、ロサンゼルス近郊の自宅で首を吊った状態で死亡しているのが発見された[21]。
伊良部は7月24日を最後に人前から姿を消しており、地元の警察の捜査では自殺とされている[21]。ロサンゼルス郡検死官事務所によると、伊良部は血中から大量のアルコールが検出されており[22]、自殺の理由として、事業に失敗したこと、死の1ヵ月ほど前から妻子と別居状態が続いていたこと(既に離婚していたとする説もある[23])などで、精神的に追い詰められていた事情が指摘されている[24]。
また、伊良部は日本で指導者となることを希望していたが受け入れる球団はなく、解説者や評論家の道も閉ざされており、野球人としての将来に不安を抱いていたとする指摘もあった[25]。
友人や関係者によって伊良部の自宅前に献花台と焼香台が設けられ、『阪神タイガース有志一同』などの献花[26]や、阪神ファンによるものと思われる阪神タイガースの帽子が供えられた[27]。29日にはニューヨーク・ヤンキースが試合前に黙祷した。伊良部がメジャー初登板初勝利を挙げた試合で捕手を務めていたヤンキースのジョー・ジラルディ監督は「一緒にいて楽しい、よきチームメートで、何度も好投してくれた。旧友を失うのはつらい。彼にも子供がいるし、悲しいことだ」と語り、チームメートのデレク・ジーターも「言葉の壁はあったが、周囲が思う以上にいろんなことを理解する楽しい人物だった。悲報を聞いたときは言葉を失ったよ」と語った[28]。阪神も30日に横浜ベイスターズとの試合前に黙祷し、ユニフォームに喪章を着用してプレーした[29]。同日、伊良部の古巣・ロッテも東北楽天ゴールデンイーグルスとのゲーム前に黙祷し、球場の大型ビジョンに伊良部の往年の雄姿を映し出した。伊良部の阪神時代の監督であった楽天の星野仙一監督も黙祷に参加した。
伊良部の葬儀は8月3日に近親者のみで行われ、遺骨は伊良部本人の希望ではロサンゼルスのリトル・トーキョーにある東本願寺別院に納骨してほしいとのことだったが、伊良部の妻とその母親の意向により四十九日を待たずに千葉市内の寺院で無縁仏として無量寿堂に納められた[30]。
選手としての特徴
「日本プロ野球史上最速の投手は誰か」といった議論の際に、必ずといって良いほど名を挙げられていた投手である。1993年5月3日の西武戦(西武球場)で清原和博と対戦した際の158km/hは日本人投手が日本国内の球場設置のスピードガンで計測したものとしては最速のものであった[31]。2005年にマーク・クルーン(記録時:横浜ベイスターズ)が159km/hを記録するまで、山口和男(記録時:オリックス・ブルーウェーブ)、五十嵐亮太(記録時:東京ヤクルトスワローズ)らと共に日本プロ野球最速タイ記録を保持していた。1994年7月19日のオールスター戦(西武球場)で読売ジャイアンツの松井秀喜と対戦したときに159km/hも記録しているが、公式戦ではないので除外されている[誰によって?]。
速球を軸に押し切る豪快な投球スタイルで知られたが、年を重ねると共にコントロールを重視したスタイルへと変化していった。前述の最速記録の後に投げた157km/hの速球を清原に二塁打された事が、投球術を磨くきっかけとなった。巨体と独特の風貌に反して理論派であるという声も多く、古田敦也は「阪神時代の伊良部は、投球術を駆使する軟投派だった」と証言している。ロッテ時代の先輩であった牛島和彦も「投球フォームの腕を上げる高さから足を下ろす位置、それによる球の軌道までをミリ単位といえる細やかさで考えているのが伊良部という投手」と語っている。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 |
球 団 |
登 板 |
先 発 |
完 投 |
完 封 |
無 四 球 |
勝 利 |
敗 戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝 率 |
打 者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬 遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴 投 |
ボ 丨 ク |
失 点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1988 | ロッテ | 14 | 6 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 1 | -- | .286 | 162 | 39.1 | 30 | 7 | 18 | 0 | 1 | 21 | 1 | 1 | 19 | 17 | 3.89 | 1.22 |
1989 | 33 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 9 | -- | .000 | 211 | 51.0 | 37 | 1 | 27 | 0 | 2 | 50 | 6 | 0 | 20 | 20 | 3.53 | 1.25 | |
1990 | 34 | 11 | 4 | 0 | 0 | 8 | 5 | 0 | -- | .615 | 544 | 123.2 | 110 | 6 | 72 | 1 | 7 | 102 | 12 | 2 | 58 | 52 | 3.78 | 1.47 | |
1991 | 24 | 16 | 2 | 0 | 0 | 3 | 8 | 0 | -- | .273 | 471 | 100.2 | 110 | 20 | 70 | 0 | 1 | 78 | 10 | 1 | 78 | 77 | 6.88 | 1.79 | |
1992 | 28 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 0 | -- | .000 | 336 | 77.0 | 78 | 2 | 37 | 0 | 1 | 55 | 4 | 1 | 38 | 33 | 3.86 | 1.49 | |
1993 | 32 | 14 | 6 | 0 | 0 | 8 | 7 | 1 | -- | .533 | 592 | 142.1 | 125 | 11 | 58 | 0 | 6 | 160 | 6 | 1 | 59 | 49 | 3.10 | 1.29 | |
1994 | 27 | 26 | 16 | 1 | 0 | 15 | 10 | 0 | -- | .600 | 870 | 207.1 | 170 | 16 | 94 | 2 | 6 | 239 | 13 | 2 | 77 | 70 | 3.04 | 1.27 | |
1995 | 28 | 27 | 9 | 2 | 2 | 11 | 11 | 0 | -- | .500 | 835 | 203.0 | 156 | 9 | 72 | 1 | 9 | 239 | 11 | 1 | 70 | 57 | 2.53 | 1.12 | |
1996 | 23 | 23 | 3 | 0 | 0 | 12 | 6 | 0 | -- | .667 | 639 | 157.1 | 108 | 7 | 59 | 0 | 3 | 167 | 7 | 4 | 56 | 42 | 2.40 | 1.06 | |
1997 | NYY | 13 | 9 | 0 | 0 | 0 | 5 | 4 | 0 | -- | .556 | 246 | 53.1 | 69 | 15 | 20 | 0 | 1 | 56 | 4 | 3 | 47 | 42 | 7.09 | 1.67 |
1998 | 29 | 28 | 2 | 1 | 0 | 13 | 9 | 0 | -- | .591 | 732 | 173.0 | 148 | 27 | 76 | 1 | 9 | 126 | 6 | 1 | 78 | 78 | 4.06 | 1.29 | |
1999 | 32 | 27 | 2 | 1 | 0 | 11 | 7 | 0 | 0 | .611 | 733 | 169.1 | 180 | 26 | 46 | 0 | 6 | 133 | 7 | 0 | 98 | 91 | 4.84 | 1.33 | |
2000 | MON | 11 | 11 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 0 | 0 | .286 | 247 | 54.2 | 77 | 9 | 14 | 0 | 1 | 42 | 5 | 2 | 45 | 44 | 7.24 | 1.66 |
2001 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | .000 | 74 | 16.2 | 22 | 3 | 3 | 0 | 0 | 18 | 0 | 0 | 9 | 9 | 4.86 | 1.50 | |
2002 | TEX | 38 | 2 | 0 | 0 | 0 | 3 | 8 | 16 | 2 | .273 | 204 | 47.0 | 51 | 11 | 16 | 2 | 1 | 30 | 3 | 0 | 30 | 30 | 5.74 | 1.43 |
2003 | 阪神 | 27 | 27 | 3 | 0 | 0 | 13 | 8 | 0 | -- | .619 | 730 | 173.0 | 186 | 24 | 47 | 0 | 6 | 164 | 4 | 0 | 77 | 74 | 3.85 | 1.35 |
2004 | 3 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | -- | .000 | 62 | 11.2 | 26 | 5 | 4 | 0 | 1 | 7 | 0 | 1 | 19 | 17 | 13.11 | 2.57 | |
NPB:11年 | 273 | 159 | 43 | 3 | 2 | 72 | 69 | 11 | -- | .511 | 5452 | 1286.1 | 1136 | 108 | 558 | 4 | 43 | 1282 | 74 | 14 | 560 | 508 | 3.55 | 1.32 | |
MLB:6年 | 126 | 80 | 4 | 2 | 0 | 34 | 35 | 16 | 2 | .493 | 2236 | 514.0 | 547 | 91 | 175 | 3 | 18 | 405 | 25 | 6 | 307 | 294 | 5.15 | 1.40 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
- NPB
表彰
- NPB
- ベストナイン:2回 (1994年、1995年)
- 月間MVP:5回 (1993年9月、1995年7月、1995年9月、1996年8月、2003年5月)
- JA全農Go・Go賞:1回 (最多奪三振賞:2003年5月)
- IBMプレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回 (1994年)
- オールスターゲーム優秀選手賞:1回 (2003年第2戦)
- MLB
- 月間MVP:2回 (投手部門:1998年5月、1999年7月)
記録
- NPB初記録
- 初登板・初先発:1988年5月7日、対西武ライオンズ5回戦(川崎球場)、3回0/3を2失点で敗戦投手
- 初奪三振:同上、1回表に秋山幸二から
- 初勝利:1988年8月14日、対阪急ブレーブス13回戦(川崎球場)、5回2/3を3失点
- 初セーブ:1988年10月20日、対南海ホークス26回戦(川崎球場)、8回表に4番手で救援登板・完了、2回無失点
- 初完投勝利:1990年8月10日、対近鉄バファローズ15回戦(藤井寺球場)、9回1失点
- 初完封勝利:1994年4月22日、対日本ハムファイターズ3回戦(千葉マリンスタジアム)
- NPB節目の記録
- 1000投球回:1996年5月17日、対日本ハムファイターズ7回戦(千葉マリンスタジアム) ※史上267人目
- 1000奪三振:同上、6回表にバーナード・ブリトーから ※史上96人目
- NPBその他の記録
- オールスターゲーム出場:4回(1994年 - 1996年、2003年)
背番号
- 18 (1988年 - 1996年)
- 35 (1997年)
- 14 (1998年 - 2001年)
- 45 (2002年)
- 41 (2003年 - 2004年)
- 14 (2009年途中)
関連情報
著書
脚注
注釈
出典
- ^ 田崎健太『球童 伊良部秀輝伝』講談社、7頁。ISBN 978-4-06-218894-4。
- ^ 田崎健太『球童 伊良部秀輝伝』講談社、8頁。ISBN 978-4-06-218894-4。
- ^ 杭瀬小との統合により廃校
- ^ 朝日新聞、1987年11月29日付朝刊 (24面)
- ^ “伊良部秀輝 日本新の158キロ!「清原さんだから」”. Sponichi Annex. 2012年7月9日閲覧。
- ^ “【9月22日】1993年(平5) 大沢親分、伊良部に“刺された”「ドームにもクラゲが…」”. スポーツニッポン新聞社 (2009年9月1日). 2018年6月26日閲覧。
- ^ 年度別成績 1994年 パシフィック・リーグ
- ^ 週刊ベースボール2018年11月19日号、冷静と情熱の野球人 大島康徳の負くっか魂!!第83回、ゴリ押しした引退試合?、64-65頁
- ^ 年度別成績 1995年 パシフィック・リーグ
- ^ 年度別成績 1996年 パシフィック・リーグ
- ^ 『球童―伊良部秀輝伝』著:田崎健太---大きな軀をした子ども 現代ビジネス
- ^ 球童―伊良部秀輝伝 話題の新刊(週刊朝日)
- ^ 伊良部秀輝の“遺言” 日刊SPA!
- ^ 99シーズンにかける日本人メジャーリーガー『月刊スラッガー』1999年5月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌05456-3、10-11頁。
- ^ a b http://news.livedoor.com/article/detail/5748022/
- ^ http://www.baseball-reference.com/players/gl.cgi?id=irabuhi01&t=p&year=1997
- ^ 日本人選手特集 THE CHALENGE 試練の時を乗り越えろ!『月刊スラッガー』1999年6月号、日本スポーツ企画出版社、雑誌05456-6、25頁。
- ^ 『月刊スラッガー』2002年7月号、48頁。雑誌15509-7。
- ^ 伊良部秀輝: 野球を愛しすぎた男の真実 - Google ブックス
- ^ Former Yankee Suspected of Drunk Driving in SoCal KLTA.com 2010-05-25
- ^ a b “元ヤンキースの伊良部さん死亡 ロス近郊の自宅で”. 朝日新聞 (2011年7月29日). 2011年7月29日閲覧。
- ^ “Coroner’s Office says Irabu intoxicated at time of death” (2011年10月16日). 2016年5月10日閲覧。
- ^ https://archive.fo/20120118085516/http://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20110730/bbl1107301420004-n1.htm
- ^ “動機は?繊細だった伊良部氏「だまされ 心のよりどころだった家族とも…」”. Sponichi Annex (2011年7月30日). 2011年7月30日閲覧。
- ^ 菅谷齊 (2011年7月29日). “ふるさとに戻れなかった伊良部 引退後に不安持つ現役選手にも衝撃”. J-CAST. 2011年7月30日閲覧。
- ^ “「タイガース有志一同」が献花 LAの伊良部さん友人ら”. Asahi.com (2011年8月8日). 2011年8月8日閲覧。
- ^ TBS『報道特集』2011年7月29日のテレビ報道
- ^ ヤンキースが伊良部の死去受け試合前に黙とう日刊スポーツ、2011年7月30日。
- ^ “阪神 伊良部秀輝氏をしのび喪章をつけプレー”. Sponichi Annex (2011年8月8日). 2011年8月8日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 嫁と実家の確執の末に伊良部秀輝氏の遺骨が「無縁仏」に NEWSポストセブン 2012年1月13日
- ^ “伊良部秀輝 日本新の158キロ!「清原さんだから」”. Sponichi Annex. 2012年7月9日閲覧。
関連項目
外部リンク
- 個人年度別成績 伊良部秀輝 - NPB.jp 日本野球機構
- 選手の通算成績と情報 MLB、ESPN、Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)