中央区立日本橋小学校
中央区立日本橋小学校(ちゅうおうくりつ にほんばししょうがっこう)は、東京都中央区日本橋人形町一丁目にある公立小学校。2018年5月1日時点で、12学級・359名在籍。校歌は「つつじの学校 日本橋」。
中央区立日本橋小学校 | |
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中央区立日本橋小学校 (2018年2月28日撮影) | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | 中央区 |
併合学校 |
中央区立十思小学校 中央区立東華小学校 |
設立年月日 | 1990年(平成2年)4月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
学期 | 3学期制 |
小学校コード | 202200 |
所在地 | 〒103-0013 |
東京都中央区日本橋人形町1丁目1番17号 北緯35度41分5.18秒 東経139度46分53.02秒 / 北緯35.6847722度 東経139.7813944度座標: 北緯35度41分5.18秒 東経139度46分53.02秒 / 北緯35.6847722度 東経139.7813944度 | |
外部リンク | 公式サイト |
プロジェクト:学校/小学校テンプレート |
概要
本校の建物の中には日本橋図書館(6・7階部分)、日本橋社会教育会館(地下2階、8・9階部分)が複合して同居しており、日本橋小学校温水プールは、一般にも公開されている。また同敷地内に中央区立日本橋幼稚園があり、地下には区営人形町駐車場が所在する。9階建ての建物を含む校舎であり、3階部分に所在する体育館や、一部校舎屋上にある屋外活動スペース、地下に所在するプールや、トラックのコースの丸みに沿って設けられた倉庫と、その上の幼稚園遊戯施設など、都心部の限られたスペースを活用した校舎となっている。
本校の敷地は、江戸時代末期には姫路藩酒井氏の藩邸があり、明治初頭(明治4年から6年)には西郷隆盛の屋敷があった場所である[1]。
平成25年2月にまとめられた調査報告書[2]により、児童数の将来推計に基づき、日本橋地区では、近隣の中央区立有馬小学校・中央区立久松小学校とともに、児童の目立つ増加が見込まれるものとして、普通教室の増加のための改築がなされることとなった。従来、日本橋図書館の一部として用いられていた5階部分について、小学校校舎として用いるための改築がされた。
通学区域
通学区域は、日本橋本町三丁目(6~11番)・四丁目(9~15番)、日本橋小伝馬町、日本橋大伝馬町、日本橋堀留町一丁目・二丁目、日本橋小舟町、日本橋富沢町、日本橋人形町一丁目・二丁目・三丁目、日本橋小網町(7~19番)、日本橋蛎殻町一丁目(7~16番)。
日本橋人形町二丁目15~20番及び32~36番は有馬小学校と、日本橋堀留町二丁目1番・2番・8~10番、日本橋富沢町、日本橋人形町二丁目21~31番・37番、日本橋馬喰町一丁目・二丁目は久松小学校とのそれぞれ調整区域として、いずれの学校への進学も可能となっている。
沿革
- 旧 十思小学校
- 1872年(明治5年)- 明治政府太政官より、学校に関する基本法制として、学制が発布された。
- 1877年(明治10年)12月 - 第一大学区第一中学区十六番小学十思学校として開校[3]
- 1886年(明治19年)11月17日 - 校舎の類焼を受けて有馬小学校内にて授業をしていたものの、本校を廃止して有馬小学校に合併
- 1892年(明治27年)4月 - 有馬小学校の分校として開校
- 1897年(明治30年)5月8日 - 地元有志により校舎を新設し、有馬小学校の分校を廃止し、高等科を併置し、東京市日本橋区十思尋常・高等小学校として再興
- 1908年(明治41年)3月 - 高等科を廃止し、東京市十思尋常小学校と称する
- 1918年(大正7年) - この年の学級数は21、児童数は男子524名・女子553名[4]
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により校舎焼失
- 1928年(昭和3年)12月 - 関東大震災後の復興事業として、鉄筋コンクリート造の校舎(日本橋小伝馬町・現 十思スクエア・東京都選定歴史的建造物)建設[5]
- 1941年(昭和16年)- 国民学校令にしたがって、日本橋区立十思国民学校と改称
- 1944年(昭和19年)8月31日 - 学童集団疎開(埼玉県比企郡野本村・西吉見村)(~昭和21年3月)
- 1947年(昭和22年)4月1日 - 中央区立十思小学校と改称
- 旧 東華小学校
- 1901年(明治34年)9月8日 - 東京市日本橋区東華尋常小学校として開校[6]
- 1904年(明治37年)4月 - 高等科を併置する
- 1908年(明治41年)4月 - 東京市東華小学校と改称する
- 1918年(大正7年) - この年の学級数は17、児童数は男子511名・女子513名[7]
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により校舎焼失
- 1929年(昭和4年)5月 - 耐震耐火建築の校舎の復興
- 1941年(昭和16年)- 国民学校令にしたがって、日本橋区立東華国民学校と改称
- 1944年(昭和19年)8月29日 - 学童集団疎開(埼玉県入間郡毛呂山町)(~昭和21年3月)[8]
- 日本橋小学校
- 1990年(平成2年)4月1日 - 十思小学校・東華小学校両校の統合により、東華小学校校舎に、東京都中央区立日本橋小学校として新設される。
- 1994年(平成6年)- 建設期間の旧十思小学校校舎への一時移転(1990年8月)を経て、新校舎落成
- 1999年(平成11年)4月1日 - 本年度以降2018年度まで、全校で12学級の編成(1999年4月当初時点で児童数は359名)
- 2000年(平成12年)4月1日 - 校名を中央区立日本橋小学校に変更
- 2019年(平成31年)4月 - 新入生の増加により、新一年生の学級数が3に増加。全校で13学級に(2019年4月当初時点で児童数は389名)
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公道から見た校舎全景(2018年2月28日撮影)
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校舎入口
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「西郷隆盛屋敷跡」の碑(2018年2月28日撮影)[9]
主な出身者
脚注
- ^ 1874年(明治6年)12月、東京府地券課が作成した東京市街地の地籍図である「沽券地図」のうち、第一大区に関するものに、蛎殻町1丁目1番として西郷隆盛の名が記されている。
- ^ 中央区教育委員会「教育環境の整備に関する基礎調査 報告書」平成25年2月
- ^ 東京市日本橋区役所『新修 日本橋区史』 下巻、1937年、375頁。
- ^ 東京市日本橋区役所『日本橋区一覧』 第二回、1919年、44頁。
- ^ 中央区立図書館 復興小学校案内 日本橋区編 十思尋常小学校
- ^ 東京市日本橋区役所『新修 日本橋区史』 下巻、1937年、377頁。
- ^ 東京市日本橋区役所『日本橋区一覧』 第二回、1919年、44頁。
- ^ 毛呂山町「広報もろやま」平成25年8月1日号
- ^ 中央区教育委員会「西郷隆盛屋敷跡」の碑 - 日本橋小学校の敷地は、江戸時代は姫路藩酒井家の下屋敷であり、明治に入って西郷隆盛の屋敷となった。明治4年(1871年)に上京し参議に就任、明治6年(1873年)に征韓論に敗れて鹿児島に帰るまで、約2年間起居した。2,600坪の屋敷に、書生を15人を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬数頭を飼っていた。