コムエアー5191便離陸失敗事故
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コムエアー旅客機墜落事故(こむえあーりょかくきついらくじこ)は、北米東部時間2006年8月27日午前6時7分頃(日本時間8月27日午後7時7分頃)、アメリカ合衆国・ケンタッキー州レキシントン発同国ジョージア州アトランタ行デルタ航空5191便(乗員3名、乗客48名。ボンバルディアCRJ-100ER型機)が、レキシントン・ブルーグラス空港からの離陸に失敗し、墜落した航空事故。この事故で、乗員3名、乗客48名のうち乗員2名、乗客48名が死亡した。唯一の生存者は副操縦士で、重傷を負ったが救出された。
5191便は午前6時にレキシントンを離陸し、午前7時18分にアトランタ・ハーツフィールド国際空港に到着する予定だった。デルタ航空5191便は、デルタ・コネクションに加盟するデルタ航空の子会社・コムエアー191便とのコードシェアによって運行されていた[1]。
機体
事故に遭った機体は、カナダ・ボンバルディア社製カナデア・リージョナルジェットCRJ-100ER型機[2] (定員50名、登録番号N431CA、製造番号7472)であり、カナダで2001年1月に製造された。同機は2001年1月30日に、デルタ航空に納入された[3] 。
事故
フライトレコーダーおよびボイスレコーダーの初期解析結果によれば、5191便は、レキシントン空港においてほとんどの旅客機が利用する滑走路22(有効長2,135m)からの離陸を許可された[4]。ところが5191便は、機長が「滑走路22(から離陸)」と復唱して確認していながら、点灯されておらず長さも1,067mとかなり短い滑走路26に進入してしまった[5]。それから機長は、離陸のため副操縦士にコントロールを渡した[6]。このときの5191便の重量は49,000ポンド](22,000キログラム)を越えており、関係者の話では5191便が離陸するためには最低でも1,079mの滑走距離が必要であっただろうということである[7]。
パイロットが離陸を中断しようとした痕跡は残っていない。5191便は、滑走路端から浮揚する直前には時速137ノット(254キロメートル)まで加速していた[7]。機体は空港の境界フェンスに接触したが、その先の有刺鉄線の柵には直撃を免れ、クリアエリアの地面に接触した後完全に浮揚した。次いで機体は数本の木に接触して、機体後部と前部、およびコックピット部分とに分解し、滑走路端から800mしか離れていない地点に墜落し、爆発炎上した。機体は原形を全くとどめないほど大破した。
原因
- 原因は国家運輸安全委員会(NTSB)などが調査中。
犠牲
5191便に乗り合わせた乗客47名全員と、乗員3名のうち2名が亡くなった。 乗務員は、機長がJeffrey Clay(35歳、1999年11月にコムエアーに採用された)、副操縦士がJames M. Polehinke(44歳、2002年3月採用)、そして唯一の客室乗務員がKelly Heyer(27歳、2004年7月採用)であった。コムエアー社長のDon Bornhorstは記者会見において、機長は同機種の操縦に大変熟練していたと述べた。[3]
副操縦士はレキシントン・ファイエット警察署の警察官および空港警備員らにより、残骸の中から救出された。[3] 2006年8月29日まで、副操縦士はケンタッキー大学付属病院において怪我の手術を受けて集中治療を受けていたという[8]。副操縦士を救出した警察官は、救出時に腕に火傷を負った[9]。
コムエアー社は8月29日、5191便の搭乗者名簿を公表した[10]。搭乗者の中には、かつてマイナーリーグ・シカゴホワイトソックスでプレーしていたJonathan Hookerとその妻Scarlett Parsleyが含まれていた。彼らは事故の前日の夜結婚式を挙げ、同国カリフォルニア州へと新婚旅行に向かう途中その最初の飛行機で事故に遭遇した[3]。なお、日本の外務省は、犠牲者の中に光野哲也、光野菜穂子という2名の日本人が含まれていたことを発表した。
犠牲者の大半はアトランタ・ハーツフィールドから目的地へ向かう便へ乗り継ぐ予定であったため、事故発生時アトランタ国際空港には彼らの友人や家族はほんの少ししかいなかった。姉を亡くしたある遺族は、アトランタからアラスカへ向かう他の便に乗り継ぐため、ハーツフィールド空港で待っていたと語った[11]。
同様の事故
- 1993年、同じレキシントン・ブルーグラス空港において、旅客機が管制塔に指示された滑走路22ではなく誤って滑走路26に進入するインシデントがあった。管制官は誤りに気づき離陸を中止するよう指示した。パイロットも誤って滑走路26に進入してしまったことに気づいた。同機は引き続き、滑走路22から通常通り離陸した。[12]
- 2000年10月31日、台湾・台北発アメリカ合衆国・ロサンゼルス行シンガポール航空006便が、台北・蒋介石空港からの離陸時、誤って工事中のため閉鎖された滑走路で離陸滑走を始めた。006便のパイロットは、眼前に迫る工事用重機を回避すべく離陸操作を行ったが間に合わず重機と衝突し、滑走路脇に墜落した。この事故で、乗員乗客179名のうち83名が死亡し、80名が重軽傷を負った。
- 2002年8月30日、ビジネス用小型旅客機が、レキシントン・ブルーグラス空港滑走路4(滑走路22と同一の滑走路であるが、針路が180度反対)への着陸の際、滑走路を過走する事故があり、乗客1名が死亡した[13]
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参考文献
- ^ “Questions hang over why crashed jet used short runway”. CNN. ( エラー: この日付はリンクしないでください。) 2006年8月27日閲覧。
- ^ "Comair provides updated information regarding Flight 5191" (Press release). Comair. 27 August 2006. 2006年8月28日閲覧。
- ^ a b c d “NTSB: Crashed Jet On Wrong Runway”. IBS 2006年8月29日閲覧。
- ^ “NTSB Preliminary Report DCA06MA064”. National Transportation Safety Board. 2006年8月27日閲覧。
- ^ “AirNav runway information for KLEX”. AirNav. 2006年8月28日閲覧。
- ^ “NTSB: Tower didn't notice deadly mistake”. The Associated Press. 2006年8月29日閲覧。
- ^ a b “Comair flight almost made it”. Atlanta Journal-Constitution. 2006年8月31日閲覧。
- ^ “Comair survivor in critical condition”. Houston Chronicle. ( エラー: この日付はリンクしないでください。) 2006年8月29日閲覧。
- ^ “Runway route changed before Ky. crash”. The Associated Press. ( エラー: この日付はリンクしないでください。) 2006年8月29日閲覧。
- ^ Comair. “Comair Releases Passenger Manifest for Flight 5191”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ^ Jeffrey McMurray (2006年8月27日). “Comair plane took off from wrong runway”. The Associated Press
- ^ “NASA Aviation Safety Reporting System report #256788”. NASA. 2006年8月29日閲覧。
- ^ “NTSB probable cause report of Lear Jet crash”. National Transportation Safety Board. 2006年8月27日閲覧。
関連項目
外部リンク
- ブルーグラス空港
- ボンバルディア社
- コムエアー (情報を得るためのホットラインが設置されている)
- 事故にあった機体の写真
- 国家運輸安全委員会(アメリカ合衆国の、航空鉄道事故調査委員会にあたる組織)
- 米連邦航空局 ホームページ